内面 表現 高橋源一郎 インターネット
近代読み書きフォーマット『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』関連
私たちが自分の読み書きについて理解したり説明したりする場合、
たとえば「内面」とか「表現」とかのモノサシを使うとけっこううまくいく。
これはなぜかというと、近代以降の読み書き行為が、
こうした特定のモノサシをいくつか含んだ
特定のフォーマットにずっと支えられてきたからだ。
このフォーマットはあまりに強力だった。そのため、私たちは、
自分たちの読み書きがこのフォーマットに縛られているという前提を
つい忘れてしまう。
これは、読み書きの特定フォーマットなどではなく、
読み書きの根源なのだ普遍なのだ本質なのだ、なんて思いこんでしまう。
明治以降に文学と呼ばれて流通してきた小説や詩がそうであったらしい。
私たちが今日携わっている
大抵の読み書き行為(新聞とか教科書とか手紙とか)もそうであるらしい。
「内面」や「表現」とは縁のない、読み書きの新しいフォーマットが、
いつの日か発見・発明されないともかぎらない。だいたいこういうことを前提としたうえで、
この近代読み書きフォーマットはいつまで有効か。明治以降、新しいフォーマットの試みは一度もなかった、という仮説も可能なら、
何度か試みはあった、という仮説も可能でしょう。
その場合、1980年代、高橋源一郎の登場は、
まさに新しいフォーマットの試みだった、
少なくともバージョンアップが起こっていた、とみていいんでしょう。
最近『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』を読んでいて、確信の度が増しています。では、2001年の私たちは、
1980年代程度の試みをどこかで目撃できるでしょうか。
今そんな試みはどこにもない、という仮説も可能でしょう。
しかし。
似たようなことを何度も私は主張していますが、
書き手と読み手の垣根がこれほど低くなったと形容されるところの、
インターネットを介した現在の読み書き状況は、何にも生み出さない可能性と同時に、
新しいフォーマットへの一つの模索となりうるとも期待するわけです。
それは文学と呼ばれる小説や詩のフォーマットというより、
私たち一般の読み書きフォーマットとして、かもしれません。
というか、私たち一般の読み書きフォーマットは、
実は有史以来ここに初めて成立するという仮説も可能 だ。
---この仮説、ちょっとすごい---じゃ、そもそもその新しいフォーマットって、どんなものでありうるのか。
そのとき「内面」はどうなってしまうのか。ああ気になる。
しかし、いま私たちがここに書き込んでいるこの行為は、
うまくすれば、その探求そのものでありうるのですよ。きっと。とはいえ、内面ってのは、たしかに「ある」ともいえます。
たとえば「死後の魂」とか「日本人としての誇り」とか「本気プロレス」とか、
そんなもの冷静に考えれば存在しないことは知ってるけど、
それでもなお信仰することはできる、といった存在として。