エル・スール
永遠に追想しつづける
映画『エル・スール』(ビクトリ・エリセ監督)について、さらに。この映画は父親と娘の話だ。ストーリーはだいたいこんな感じ。スペイン北部の村。1957年。黙って失踪した父親を15歳になった一人娘が追想していく。父親はスペイン内戦で共和政府がフランコ軍に破れるという苦闘のなかで故郷を捨ててきた。娘はその父親を深く信頼し慕いつつ、愛着のある家と荒涼とした風景に見守られながら育ってきた。しかしあるとき、娘は、父親が故郷で失った女性への思いをまだ大切にしていることに気がつく。父親の過去がひそむ故郷スペインの南。その南とかかわる未知の女性。こうした謎のイメージに、娘は惑い、そして惹かれていく。街で見かけた父親を追いかけ、カフェの窓越しに見つめるといった限られた触れ合いを頼りに、娘は「南」(=エル・スール)を辿っていくのだ。
映画のなかで、8歳になった娘が村の教会で聖体を拝受するという行事が描かれる。この聖体拝受祭は子供とその家族にとって重大なイベントらしく、孫娘の姿を見るために祖母もはるばるやって来る。父親が縁を切った故郷からだ。教会には天使のような衣装を着た子供たちが勢ぞろいし、祭壇の前に一人ずつ進んでいく。神父を通して神の御子として祝福を受けるということだろう。ところが父親はなぜかこの行事に冷淡で、娘の晴れの日だというのに朝から戸外に出て鉄砲を撃ったりしている。しかし、祭壇から席に戻った娘が後ろを振り返ると、隅っこに隠れるようにして父親が見てくれていた。娘は満面の歓びを浮かべ、父親のもとに駆けていく。とても美しく印象的なシーンだ。
キリスト教といえば、今やある種グロスタであって、クリスマスに結婚式といったイベントなど見慣れている。しかしその一方で、こうした場面に出くわすと、私には馴染みもなければ事情もにわかに把握できない生活や風物が、世界のあちこちにこのように存在する(した?)んだなあと深く感じ入ってしまう。こうした憧憬を誘う条件を、たとえば民俗的と呼んでもいいのではないか。最近私はそう思っている。民俗というのはもちろん、由緒正しき歴史や伝統といったものとはまた別の概念だ。だから都市においても現代においても民俗はありうる。我々が海外旅行していてカルチャーギャップのキテレツさをわけもわからず面白がるのも、こうした条件に適っているからではないか。映画と旅行。先月帰郷したときの日誌に書いたのもそのようなことだ。
聖体拝受は、私の領域に置き換えれば、七五三とか稚児行列に当たるのだろうか。小学生のころ集落の秋祭りで神社のお神輿を担ぐために早引きして帰らされたようなこともあったが・・・。
ところで先日、ちょっと出かけるつもりがなかなかグレートな散歩になって、とうとう明治神宮の裏門あたりにまで至った。樹木の深さに改めて驚いきながら中を歩いた。拝殿の前は三連休とあって人出も多かった。それらを眺めてからさらに参道を逆に進んで行ったところ、アデヤカな着物の一団が目に飛び込んできた。やや時期遅い七五三の衣装かと思ったが、近づくと原宿若者ファッションだった。そして、こういう時にこそなぜだか民俗的という形容が思い浮かんでしまうのだった。散歩はさらに続き、神宮外苑の銀杏並木に到達して終了した。
さてさて、『エル・スール』で、父親が娘の聖体拝受祭を避けたがったのはなぜか。私は、たんに父親は近代人なので迷信的な行動や因習的な行事が性に合わないということなんだろうくらいに思っていた。我々だって奈良や京都の国宝寺院なら金を払って見学するが、親戚の法事とか会社関係の葬式で坊主の読経なんか聞きたくないのと同じで。つまり、民俗というのは遠く離れた人には強烈なエキゾチズムを醸しても、当事者にとってはつまらない日常にすぎないということにもなるだろう。昔モンゴルのウランバートルを旅行したとき、ナーダムという国民行事が開催されており、観光客はこぞって馬のレースや相撲を見に出かけるのだが、アパート住まいのある若者にすれば「ナーダム?興味ない」だったという話があった。
ところが、エル・スールの父親の教会嫌いはそう漠然としたものではなく、スペイン内戦に起因する確固たる信条らしいということを、あとで知る(娘ももしかしたら、映画の最後に旅立った南で、そうしたことを知ることになるのか)。それについては、簡潔な参考としてこちらのページをどうぞ(リンク)。
私はずっと、教会のセレモニーに従順になれない父親の気持ちというのを、どう実感していいかわからなかったと思う。しかし、上に挙げたいくつかのことがあってやっと、それはたとえば君が代を歌ったり日の丸を掲げたりするイベントに居合わせてしまった時の私の気持ちに近いのではないか、とそんなふうに思い当たったのだった。明治神宮を歩きながら、そんなふうにして『エル・スール』の父親への回路が一つ見つかった。それだけではない。
スペイン内戦というのは、どうもちゃんと習ったことのない歴史だ。だいたい内戦という言葉自体、私には実像を伴ったためしがない。そう、まるで「南」のような存在だ。しかし、上に挙げた思い当たりから、さらには、今年の夏テレビやインターネットで靖国神社や教科書を巡る憎しみに満ち満ちた争いをたくさん目撃したことが思い起こされ、もしかしたら内戦というのはこういうことがこうなってああなったときに起こるものなのかもしれないと、そのような想像すら得ることができたのだった。
このページの前段として、映画を見た感想が日誌にあります。きょう書いたのは、しかし、『エル・スール』をめぐるほんのひとつの思いだ。『ミツバチのささやき』も含めて、追想は永遠に続く。
●『エル・スール』(01.11.24)
●『ミツバチのささやき』(01.11.25)さらに昔のほんの一言もあります。
● 『エル・スール』(98.11.1)
● 『ミツバチのささやき』(97.11.15)