高橋源一郎カルト説
文学?...いやあ私にゃ縁がありませんよ。そう笑ってた人が、なにかの拍子に高橋源一郎小説と出会う。源一郎小説の中でひたすら繰り返されていることは、「文学」と呼ばれてきたものを、壊したり、転がしたり、汚したり、試したり、脅かしたりすかしたり、かどわかしたり、そういうこと---であるとしよう。読みづらいページをめくりながら、彼は思う。なんかヘンだ。自分に関係のない「文学」が攻撃されているはずなのに、どうも自分自身が攻撃されているような感じがする。どういうことだ。でもそれは、どこかすがすがしくもある。彼はだんだん気が付いていく。---俺は、文学に縁がなかったのではなく、むしろ既成の「文学」にしっかり取り込まれ、かつ、それを自覚しないでいただけだったのだ---これは、このようなことに似ている。「あなたの宗教は何ですか?」いやべつに、何も信じてませんけど。そう言いながら、クリスマスケーキを食べ、神社に初詣に行き、身内が死ねば迷わず坊さんを呼ぶ、そのようなことに。あなたは実は、無宗教なのではなく、自らを縛っている既成の「宗教」に無自覚なだけだ。むしろその「宗教」の歴史的国民的普及に手を貸してさえいた。
昔から生活に入り込んでいる仏教やキリスト教は、宗教というよりは教養とか道徳みたいなものになって、穏やかに人々を癒している(よく知らないけど、きっと)。しかしオウムやライフスペースといった新興カルト集団となると、ときたま驚くべき現象が生じたりする(もっとよく知らないけど、たぶん)。かの教祖たちは言う、古い宗教は去りなさい。我々は本当に奇跡を起こしてみせます。
源一郎小説においては、奇跡は、時として、起こる。だからあなたは、古い仏壇みたいな既成の「文学」を捨て、これからは高橋源一郎の言葉のみ耳を傾けようと決めた。教祖への信仰がその時から始まった。迷える衆生を正しき文学の道に導こうともしてきた。あんまり誰も入信しなかったけれど。だいたい教祖があんまり常人には理解できないことばかりのたまうものだから。君が代は千代に八千代に。だから、渋谷区立勤労福祉会館のおじさんだって未だに高橋源一郎の名を知らないのだ。
ところで本当は仏陀もイエスも、一度はちゃんと奇跡を見せたはずだ。仏教だってキリスト教だって、もとは強烈なカルトだったに違いないのだから。ただ、時代は流れた。
源一郎小説においても、(いかに寡作とはいえ)時は流れた。朝日新聞の連載もいよいよ開始されんとする昨今、高橋源一郎の名こそ文壇あるいは文豪のイメージに最もふさわしいとさえ囁かれる。それならば、源一郎小説は、これから偶像化を免れるのだろうか。かの文学論が教条化しないと言い切れるのだろうか。斎戒沐浴、教祖は今も修行を怠ってはいないのか。読者の教会は腐敗しないのか。