近ごろの高橋さん
むしろ高橋さんって、調子こくような人では全然ない、
ようにと常に心掛けている人なのではないかなあ。
逆にケンソンが過ぎるよと思うことはあるけれど。話は飛びますが、たとえば結婚なんて、
一生のうちに1回だけという人はたぶん多数派で、
多くても、せいぜい2〜3回。(高橋さんをあてこすっているのではないですよ)
就職だって1社だけという人が少なくはない。
それでも、私たちは、たとえば、結婚ということを、就職ということを、
自らの数少ない経験だけで、わかりきった気になって、
結婚とはこういうものだ、就職とはこういうものだ、と、たぶん語る。
それは正しいのか、誤っているのか。
そんなの1回や2回の経験でわかるわけはないし、実際わからないよ、
と思う一方で、
そんなことを言っていたら一生なんてすぐ終わってしまうし、
一回だけでも、それについて語る資格は十分持てるし、
あるいは一回だけでうんざりしてしまうものなんだよ、とも言いたい。小説を書くということも、それに似ているのではないか。
高橋さんが、寡作と言われつつも、
あんなに渾身の、さまざまな思考志向至高嗜好試行歯垢を詰め込んだような小説を、
たとえ数作でも書いたということは、
それは結婚5回分に匹敵するくらいの、ものものすごいことなんだと私は思う。誰かにとって、素ばらしい小説というものがあるとしたら、
それはそういくつもなくたってよい。
ましたや書く方にしたら、1作あるかないかが、勝負なのではないか。そういう小説家、高橋源一郎が、
今、すれっからしの小説家になりきってしまい、
円熟、渋み(あれは渋みだと私は思う)、老獪であったとて、何が悪かろう。
じじいというのは(お年寄りにはキビシイ言葉だけど)、
小説をいくつも書き残した50すぎの人なんて、
そりゃ20,30の人からは、絶対じじいだ。そういうじじいを私は尊敬する。私の人生が永遠でないごとく、高源も永遠に生きるわけではない。
高源小説も、永遠に書きつがれるわけではない。そういうことを考えると、私は高源小説の、読者であることを、
意地でもやめないでおこうと思っています。