『文学なんかこわくない』の
「政治的」ということで
考えをめぐらす

●その1

 政治も文学も言葉を用いる限り本来誤りうるものであるのに、そういった誤りうることを前提にしないところの政治や文学を、タカハシさんは「正しい」あるいは「政治的」とマイナスの感情を込めて形容しているようです。「湾岸戦争に日本国家は加担するな」といういわゆる政治的な文章も、「湾岸やああ戦争や鳥よ鳩よ」といったいわゆる文学的な文章も、絶対的な正しさ(あるいは美しさ?)を目指せばそれは同様に誤りうるものだということでしょうか。

 高橋源一郎氏にとって、湾岸戦争の時のあの行為は、「最低よりは少なくともましな行為に思える」と考えた結果だったようです。最低というのは、誤りうることを前提にしないいかにも正しい理屈、つまりは政治性を強く帯びた理屈を指すのだと僕は読みました。ただしそれは「湾岸戦争反対」とデモをする理屈だけではなく、「もうそういうことに意味はない」とデモに行かない理屈も指すようです。そういう場で、ああいう討論をしてああいう声明を出すことは、潔くなく勇ましくなく、つまりかなり愚かに見えますが、それは言い換えれば、ぐずぐずと考え続けることであり、つまりは誤りうることを前提にどう誤るかを真摯に試みたぎりぎりの行為だったのだと、僕は理解しています。

 僕は、たとえば「朝まで生テレビ」の論客が毎回口にするような発言が、まさに誤りうることを前提にしないマイナスの意味での「正しい言葉」つまりは「政治的な言葉」であるのなら、そういう発言からは極力遠ざかろうと思っています。

 しかし単に政治に関する発言、つまり戦争や国家や天皇に関する発言だからといって、それだけで「政治的な言葉」になってしまうのではないと思います。小説や都市やオフ会に関する発言であろうと、誤りうることを前提にしない「正しい言葉」は、「政治的な言葉」になるおそれが十分ありますよね。ということは、逆に、戦争に関する発言だって「政治的な言葉」に陥らないことも可能なはずです。

 そういう点でみると、僕たちが今たとえば戦争について予算案についてリストラについてあまり語らない理由が、政治に関する発言はすべて自動的に「政治的」だと誤解しているせいだとしたら、淋しい気がします。

 もちろん(また話が逆戻りしますが)、言葉の持つ政治性について吟味するとき、その題材が戦争や予算案やリストラに関してでないとダメだというわけではありません。だから、高橋源一郎氏が今戦争に対してなにも発言しなくても、非難する気などさらさらありません。ただただ僕は、言葉の持つ政治性について高橋源一郎氏がもっともっと考察しもっともっとその結果を教えてくれることを願うだけです。その題材が、たとえば身近な人との戦争であろうと、身近な人のリストラ問題であろうと。

 これは問いでも答でもありません。**さんや他の皆さんが『文学なんかこわくない』をどう読んだかもっと知りたい。





●その2

高橋源一郎『文学なんかこわくない』の「文学の向う側2」より引用します。

<ここから引用>

 それぞれの言葉は、それぞれの言葉を作りだした人間の世界の中で丁寧に吟味され、矛盾のないよう選ばれる。だから、それぞれの言葉を使うものはどちらも自分の正しさを疑わない。そしていつかそれが「言葉が作りだした空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」であるように思いこむ。
 それは言葉の持つ本質的な政治性である。
 ではその「政治」性とは何なのだろう。
 タカハシさんの好きなある作家は「政治」の本質は次の一行で言い表せると書いた。
「やつは敵だ。殺せ!」と。
 それは言い換えるなら、「わたしは正しい。やつは間違っている」ということだ。そして「戦争」とは「政治」のとる最後の形態なのである。そう、「戦争」は言葉の中にその根拠を持つのである。

 =略=

 わたしたちは毎日、なにかをしている。毎日、なにかをしゃべっている。それは完全に自発的な行為だろうか。なにものにも束縛されぬ自由なふるまいであろうか。わたしたちは、自由で責任を持った主体であると言えるだろうか。
 そう問われれば、わたしたちはおずおずと、そうではないと答える。わたしたちはなにかに束縛されている。わたしたちはなにかを真似て行動している。わたしたちは、わたしたちより先立つなにかのふるまいを見て、わたしたちより先立つなにかの言葉を聞いて、そしてさらに、いったん、それを見たり聞いたりしなかったかのように、ふるまい、言葉をしゃべる。
 そしてもしわたしたちのふるまいと言葉が、わたしたちの感受性からやって来ているなら、その感受性はなにに拘束されているのだろうか。
 世界というものが、わたしたちのふるまいと言葉でできているなら、そしてその世界に矛盾に満ちた問題があるなら、わたしたちのふるまいと言葉にひそむ謎を解かないかぎり、その問題を解くことはできないのである。
 では、わたしたちのふるまいと言葉を拘束するものとはなにか。
 ここまで書けば、もうわかるはずだ。それは日本語なのである。

 =略=

 では、日本語の外へ、わたしたちはどうやって脱出することができるのか。脱出するためには向い合わなければならない。
 なににか?
 日本語に、だ。
 なにによってか?
 日本語によって、だ。
 そのようなことが可能なのか?
 可能である、そう加藤典洋は書く。
 どのようにして? 
 それは愚かな問いだ、と彼はいう。なぜなら、文学とは、結局のところ、その国語によって、その国語に拘束された空間を超えていこうという試みだからだ。文学だけがそれを可能にする。そして、その試みの中にしか、文学の根拠はないのである。

 =略=

 世界とは、もしその「世界」という言葉に意味があるとするなら、わたしたちと関係を結ぶことのできるなにかでなければならない。その関係がどのようなものであろうと、わたしたちがそれと繋がれている全体のことを世界というのだ。だとするなら、いつ、どうやって、単なる物象と現象の集合である見せかけの世界は、わたしたちが関係を結ぶことのできる世界となるのか。

 そして、加藤典洋は答える。
「文学」がその基底にある時、世界は世界として成り立つのである、と。
 では、その時、「文学」とは何なのか。

 =略=

「政治」の本質が「わたしは正しい、やつは間違っている」なら、「わたしは正しい」と訴える「文学」はすでに「政治」に冒されているのである。そして「わたしは正しい」と主張する「文学」は「政治」であるが故に、ついにこの世界の「基底」にはなりえないのだ。
 では、世界の「基底」に成り得る、世界を成り立たせることのできる「文学」とは何なのか。
 ここまで来て、ようやくわたしたちは最後の問いにたどり着くのである。

<引用終わり>

引用だけで終わってしまいますが、これを読む限り、高橋源一郎氏がなにに挑もうとしているのか論理的には明快であると思えます。「政治」がどういうものなのか、はっきり述べています。「文学」がそれと違うこともはっきり述べています。「文学」の目的すらかなりはっきり述べています。そして、そういう役割を担える「文学」とは、いかなるものなのか、いかにして可能なのか。これを問いかけてこの本は終わるのです。ここからは、僕(たち)も高橋源一郎氏と一緒に(あるいは高橋源一郎氏とは別にでもよいのですが)同じ問題をそれぞれ考えていくのです。

またもや問いにも答えにもなりませんでした。**さん、あるいは他の方、これを気にせずどうぞ先へ進んで下さい。

私たちの言葉やふるまいには、なんらかのそれに先立つ言葉やふるまいがある、と高橋源一郎氏は述べているわけですが、同じように先立つものとして僕の机の上のパソコンがありインターネット網がありこの掲示板があります。そういうものがなければこの文章もありえなかったのです。これから勝手にどんどん書き込みが進むとしても、だからそれは僕ひとりのせいではありません。





●その3

 米国、英国のイラク攻撃の報は、仕事で運転していた車のラジオで聞きました。大きめのゴツイ車のうえ久しぶりの運転でもあり、他の車や歩行者を見おろしながら「保険はちゃんとしてあるよな」とか緊張気味だった日です。

 交通事故で人を死なたりしたらそれはもう大変なことです。会社やドライバー個人に大きな負担がかかります。だから僕は事故を起こさないよう最大限気を配って走ります。自分の命が大事なのは本能的な実感ですが、見ず知らずの人の命が大事なのは「その人にとってはまさに自分の命だ」という想像力だけでなく、「交通事故で人を死なせた責任はとても重い」という社会的・道徳的な価値観に負うところが大きいのです。中国では人を車ではねて殺してもさほど咎められないといい、それが本当なら、その価値観が普遍的でない証しです。

 戦争はどうでしょう。ミサイルの空爆でバグダッドの住人が死んだ。でもまあしょうがない。どうしてそんなに簡単にことがすませられるのか。「戦争で人を死なせた責任はとても重い」という価値観が、アメリカやイギリスの個人にあまり強くないとは思えません。ただ「戦争だから人が死んでもしかたないんだ」という逆の価値観がそれ以上に強いからではないでしょうか。

 車社会の目的を達成しようとすると交通事故という犠牲がついてまわるのが実状です。犠牲をなくすには目的を諦めることがなによりですが、次善の策は、便宜上でもよいから、犠牲の重さを社会的・道徳的に強く実感することであり、自動車保険の普及はそのひとつの手段です。

 戦争の目的を達成しようとすると戦死者という犠牲がついてまわるのが実状です。犠牲をなくすには目的(自国が考えるところの国際社会の秩序維持とか商売の安定とか)を諦めることがなによりですが、次善の策は、便宜上でもよいから、犠牲の重さをもっともっと実感することであり、さて、その手段とはなんでしょう。

 素朴ながら「戦争はいやだいやだ」と言い張り続けることも無意味だとは思いません。あるいは、ここはひとつ、はなはだ便宜的な方法ではありますが、戦争保険なんていうものを考案し、その兵器を扱った軍組織と兵士個人が敵国の犠牲者に対し徹底して補償しなければならないルールや意識を普及させたらどうでしょう。国家間で戦争が起こるのは避けられないことだと言うのなら、その戦争の被害に対する補償も必然的なものとしてしっかり準備すべきではないでしょうか。

 要は「交通事故で犠牲者を出してはいけない」「地下鉄サリンで犠牲者を出してはいけない」「毒入りカレーで犠牲者を出してはいけない」と考える人が、一方で「戦争で犠牲者が出るのはまあしかたがない」と考えているとしたら、それは社会的・道徳的価値観の濃淡にすぎず、つまり錯覚であるということです。

 あした僕の目の前に車が飛んでくる可能性はありますが、ミサイルが飛んでくる可能性はほとんどないので、そういう意味では戦争は交通事故ほど身近ではありません。しかし戦争の目的が実はけっこう車社会の目的と似ているかもしれず、その目的達成のために結局は個人が犠牲になりがちという構造もけっこう似ています。このように戦争は、交通事故の類推で考えられる問題であるという点では、まあ、ノストラダムスの大予言は当たるかどうかという問題とか、クリスマスにどこで食事をしてどんなプレゼントをやりとりするのが理想かという問題に比べれば、身近といえなくもありません。


Junky
1999.

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著作=junky@迷宮旅行社http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html