批評コンビニ幕の内(1) 鎌田哲哉
追加かねてより注目しているサイトの「偽日記」が、私の文章に、それもすぐさま触れていたので、ちょっと驚いた。いやそれ以上に、なんというか、自分としても不徹底だったかな、できればそっとしておこうという部分だったかな、でもだからこそ他の人にもなんらか違和感を生じさせてしまうのかな、という感慨に包まれる。しかし、このような書くことの隙が図らずもあらわになってしまうことと、誰かがそれに敏感に反応していくことが、丁寧に繰り返されてこそ、なにかが一段ずつクリアになっていくのだろう。批評なんかを読んでみると、ある文章が他の文章に評され、それがまた別の文章に評され、それがまた・・・・という連鎖がいつ果てるともつきぬようで、ついため息をついてしまうが、有名無名問わずコツコツ文章を読み書く者にとって、それは余りに当たり前の宿命と言えるのだろう。
「偽日記」はいつも極めて正統に書かれた文章であり、いつもなるほどと思わされてしまう。今回私が書いたこととは違う「小説の好みや読み方」についても、すっかりうなずいてしまった。そういうものだ。批評とは(手段はどうあれ)説得力の勝負だ。
といいつつ、私は、(1)鎌田哲哉のページに続いて、(2)丹生谷貴志のページでも「小説は楽しく読みたい苦しく読みたくはない」という、ふつうの態度を便宜上また表明してしまっているので、思いは複雑である。
一方で、負け惜しみではないけれど、小説がつまらなくないことや白々してはいないことにむしろ首を捻るという立場についても、私は実にきょう、しみじみ思いをはせることがあった。それは夏目漱石の『明暗』を読んだ小島信夫の評論の一部らしい。引用しておく。
<こういう気楽な文章の流れとつきあっていると、私達が求めているのは、いったい何であったのか、という気持ちになる。私達は実は何もきかされるのを求めたりしているわけではない。何も読みたいわけではない。ただ目うつりするものだけを追いかけているにすぎなくて、それはこの読者である私が真剣であることを要求されたくない、と思っている。ただ、眼が動くからこちらの人間さまも関心をもっているように見えるだけで、それ以外何ものでもない、という姿勢のままである>
<この世界はスイも甘いもすべてを常識としているところである。多くの小説は、甘い考えを抱いているが、それを許さぬ世間とぶつかって挫折し、世間が悪い、もっと自由をあたえろ、筋の通ったことを認め、その筋を通せ、と訴えるようなふうであることが多い>
(小島信夫『漱石を読む--日本文学の未来』・・・実際は高橋源一郎『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』から孫引き)