脳内夢想(続き)
「薔薇の花を見たときの鮮やかなこの感じ」や「ラーメンを食べたときのぐっとくるあの感じ」は、すべて、感覚器からの刺激に対し脳内でニューロンが反応して生じているすぎない。私たちはこの事実を知ってはいても、時としてそれを受け入れがたく思ってしまう。それは何故か。
ちょっといろいろ考えてみます。
薔薇の花の刺激に対するニューロンの反応だけで、私が薔薇の花を見たときのこの感じが説明できる。
次も同じことです。
ピアノのドの音の刺激に対するニューロンの反応だけで、私がピアノのドの音を聞いたときのあの感じが説明できる。(A)
これを言い換えます。
ピアノのドの波形だけで、私がピアノのドの音を聞いたときのあの感じが説明できる。
さらに言い換えます。
ピアノのドの波形だけで、ピアノのドの響きが説明できる。(B)
「響き」というのは、「ピアノの弦の振動が室内に響いた感じ」というようなことです。
さて、あなたは、(A)の説明を受け入れますか、また(B)の説明を受け入れますか。
(B)は受け入れるが(A)は受け入れないとしたら、理屈としては不公平のように感じます。
例を変えてみます。
ピアノのCmの和音(ド、半音低いミ、ソ)の刺激に対するニューロンの反応だけで、私がピアノのCmの和音を聞いたときのあの悲しく暗い感じが説明できる。(C)(C)が受け入れがたい人は、もちろん(D)も受け入れがたいでしょう。
ピアノのCmの和音の波形だけで、私がピアノのCmの和音を聞いたときのあの悲しく暗い感じが説明できる。(D)
では次はどうでしょう。
ピアノのCmの和音の波形だけで、ピアノのCmの和音の悲しく暗い響きが説明できる。(E)
さっき(B)を受け入れた人でも、この(E)はやっぱり受け入れがたいのではないでしょうか。つまり「ドの響きはドの波形だけで説明していい」と思いつつ、「Cmの悲しく暗い響き」といわれると「それはCmの波形だけでは説明できないんじゃないか」と思うわけです。しかしこれもまた矛盾です。
私は、(A)から(E)までは、すべて同じような関係を同じように説明していると考えています。おまけに、前のページにあげた例もすべて同じ構造をしているのではないかと考えています。それでも、実感としては、あるものは受け入れやすく、あるものは受け入れがたい。そういう矛盾が生じるところに、脳と心の関係が神秘性をまとうカラクリがあるような、そんな気がしています。
なんの話だったのか、結局わからなくなってしまったかもしれません。本当は、言葉と脳の関係に考えを進めたかったのです。われわれが薔薇の花を見た時には、脳はその映像だけでなく同時に「バラ」という言葉も引っぱり出してきているはずだとか、「バラ」という文字や音声の刺激に対して生じるニューロンの反応全体を「バラ」の意味と考えたらどうかとか。しかし、きょうはこのくらいでさようなら。
*なお、これらは「心が脳を感じるとき」(茂木健一郎著)という本を読んだことがきっかけで書き始めたものです。茂木氏は、脳と心を解明する手だてとして「クオリア」という観点(あるいはモデルというか問題の立て方というか)を提唱します。クオリアとは、上にある「バラの花を見たときの鮮やかなこの感じや、ラーメンを食べたときのぐっとくるあの感じ」のことです。茂木氏は「われわれの心に生じる現象はすべてニューロンの発火に伴って起こっている」という大前提に立った上で、「感覚器から伝わった刺激にニューロンが一時的に反応するだけでクオリアが生じるのではない」といった微妙なことを述べていきます。しかし、ここに私が書いたことは、その微妙な趣旨とは関係なく、そもそも脳や心を考える前提である「脳内現象はすべてニューロンの反応だ」というおおざっぱなことについての話です。