山形浩生『たかがバロウズ本。』
ぶっちゃけ本。まずはそう言っておこう。何よりバロウズについて一切合財ぶっちゃける。バロウズ論ないしは文学評論についてもぶっちゃける。そうした希有なぶっちゃけが為されたあかつきに、何が起るのか。これまでぶっちゃけなどという技法につゆ縁がなく、あるいはぶっちゃけを巧妙に避けてきたのかもしれないポストモダン系評論が、にわかにつまらなくバカバカしく卑怯に見えてくるのだ。「退屈。わけわかんねー。なにこれ。わかるところはグログロ」。バロウズの既存の評価として真っ先に取り上げるのがこれだ。バロウズを読み込んだ激しさは「世界でトップ20に入る」(めずらしく控えめな・・・いやむしろ実質的?)と豪語する山形だが、大勢の読者が抱くこうした評価を「90%まではきわめてフェアで正当」と認める。そこから話が始まる。逆説ではない。むしろこのぶっちゃけた感想を「世間的無理解の代表例みたいに言い立てる」連中こそピント外れなのだと切り返す。社会批判や権力批判あるいはテクスト論として展開された、そのピント外れのバロウズ解釈を、自身の解釈と対比することで、晦渋なくせに浅薄かつ鈍感なこじつけぶり、「ロールシャッハテスト」的な思い込みぶりを暴き、敵討ちのごとき執拗さで次々になぎ倒していく。
敵の中心にいるポストモダン系を、もはや「ポモ」の略称でしか呼ばないのが、また可笑しい。ポモ撲滅運動はこの本全体に行き渡っている。「付録C」で俎上に上がった武邑光裕の文章など、ポストモダンの範疇かどうかは知らないが、たしかにあまりにうんざりしてもう笑ってしまうしかない類いだ。それらをどうやっつけるか、胸のすく裁きが見もの。
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さてそのあとで山形は、自らのバロウズ論を3章にわたって展開していく。バロウズを読むというのは「そんなことじゃない」と否定したうえで、「こんなことなんだ」を全力でもって隅々まで見せてやろうとするのだ。その中軸は、第8章「小説にしかできないこと」にあるようだ。そこではバロウズの小説技法であるカットアップの文学的価値が主に問われる。そのアプローチの一つは、なんと、文学の「コストとベネフィット」という観点からなされる。これが圧巻。題して「バロウズ小説のミクロ経済分析」だ。具体的には、カットアップというややこしい文章を読むのにかかる時間、おもしろいフレーズの出現率、読む人の時給などを組み合わせて、方程式を編みだす。《モデル化にあたっては便宜的に新古典派総合と合理的期待形成の考え方を採用するものとする》という講釈まで付く。ともあれ、そこから得られる結論はこうだ。
《バロウズを享受できる読者とは:
●おもしろいフレーズに過大な価値を置く人
●時間コスト(つまり所得水準)がきわめて低い暇人
●文を読む速度が異様に速い人物》さらに、暇な大学生を想定してバロウズを読むコストを実際に計算もしている。その結果は、おもしろいと1回感じるたび、ぶっちゃけ213円(本代別)、というものだった!
関連して次のような考察もなされる。《もし小説の評価が経済力にある程度依存するものだとしたら――つまり、同じ価値判断を下す対象に対しても、所得の高い人はそれを読むに値しないと評価するのだとしたら――現代の活字離れとか小説離れという現象は、ある意味で経済水準向上の直接の結果なのかもしれない。昔の人は貧乏だったので、限られたテキストを時間コストをかけていろいろこねくりまわし、凝った読み方をしても(つまりブンガク的な読解をしても)それは十分に正当化された。でも、所得が上がってしまった現在、もはやそれだけの労力を割くことがコスト的に見合わなくなっているのかもしれない。》
むむむ。ここは、ブンガクがケイザイにオカマを掘られるという、鮮やかで、刺激的で、悪質な遊戯を楽しむパートだったのか? しかし待てよ、ほかでもないポストモダン系こそが、大抵そうした戯れに紛れて漂っていたのではなかったか。それともこれは断じて目くらましではなく、真摯さ熱っぽさの現われか? この本で最も引っ掛かったのはこの点だ。この章ではきっと文学評論のまったく新しいプロトタイプが登場し、そのメカニズムが根拠となってポストモダンという機械が本当に壊れる、そんな瞬間に今夜は立ちあえる、私はそこまで期待した。さてその判定はいかに。もちろんこれら3章が、数多の文学評論のなかで際だって明晰で、面白く分かりやすいものだったことは、忘れずに記しておく。
それよりも、たとえば、コンピュータを使えばバロウズのカットアップはもちろん、種々の○○風の文章までが生成可能であり、実際にソフトもあるといった言及の方に、もっと注目すべきかもしれない。ひいては文学のアルゴリズムによる創作ということになる。そのことを山形は、アマゾンのサイトが閲覧履歴をもとに自分の好きそうな図書を勝手に選んで薦めてくるという実際の機能に結びつけて夢想する。上に述べた「まったく新しい」という形容に適うとしたら、そうした手探りの方だろう。
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ところで、この本が一貫して繰り返すのは「バロウズの自由と不自由」というテーマだ。ここでいう不自由とは、バロウズの人生に陰を落とすドラッグの売人と常習者の切っても切れない相互依存、妻を射殺したという拭いがたい記憶、さらには、書かないと食えなかったという経済的な束縛、人間の言語は宇宙から来たウィルスではないかとの妄想、などにとりあえず絡んでいる。それがバロウズのなかで「この現実がなにかにコントロールされている」という意識として一般化されていったという。カットアップも、言語や現実をそのコントロールから脱却させようとして試みられたのだとしている。
このテーマは要所要所で装いを変えつつ何度も登場するが、それがぐうっと高みに上昇するのは、終盤も終盤、第10章「おわりに」のさらに最後の節だった。バロウズの自由と不自由を大きく俯瞰する視界が、ここで一気に開かれる。私の目も開かれる。
そこに見えるのは、自由の追求ということがバロウズにとってドラッグ中毒と同じ悪循環に陥っている光景だ。すなわち、《人はだんだん自由を求めるにつれて、いまある自由では満足できなくなる。もっともっと多くの自由をひたすら求めるようになってしまう。自由中毒を維持するためだけに、自由をもっともっとほしがるようになってしまう。》
そのうえで新たに参照されるが、またもや経済学で、「不況は人々が流動性を持ちたがるから生じる(場合もある)」という小野善康の理論だ。流動性とは現金のこと。いったん人がモノを買うより流動性(現金)のほうがいいと思い始めると、もう止まらなくなるのだという。歯止めが効かないまま、どんどん流動性を貯め込むようになってしまう。この流動性(現金)とはズバリ「自由」のことだ、という人もいる。そして――
《人々が、使う当てのない自由を貯め込もうとするが故に、不況が起き、経済も社会も停滞し、みんなが迷惑する。》
《そして重要なのは、別に人が自由=流動性を貯め込もうとすること自体は、特に非難されるべきことではない、ということだ。(略)でも、その結果は明らかに万人にとって(貯め込んだ当人にとっても)よろしくない事態だった。そして人々は、悪い自由=流動性を求めたから不幸になったわけじゃない。よい自由=流動性を追求すればよかった、という話でもない。》
これを受けて、自由を貯め込んで中毒に陥ったバロウズと、流動性(現金)を貯め込んで不況に陥った経済が、にっちもさっちもいかなくなった事情においてそっくりだと山形は指摘するのだ。バロウズの自由という問題が、思いもよらない広がりを見せる。
そうして論述は進む。自由であることに絶対的な価値はない、本当の自由というものがどこかにあるのでもない、貯めた自由は使わねばならない、と。《自由というのは、とりあえず好きなものにコミットできる、ということではある。使えば――つまり何かにコミットすれば――自由は減る。ある意味で。でも自由が減るのを恐れて何にもコミットしなければ、つまり何もしなければ、そんな自由はあっても仕方なかったとも言える。いやいやながらでも、何かをやってくれたほうが結果的には自他共によくて、だからそもそも自由なんかくれてやったのがまちがいで、尻を叩いてでも働かせるべきだったとすら言える。そうならないように、人は自由を使って自分が価値を生み出せるのを実証しなきゃいけない。》
だがバロウズの反面教師としての自由とは――。《バロウズにあるのは、行き場を失った自由たちのブラウン運動だ。方向もなく、何かに向けて組織されるわけでもない、ある意味でまったく無駄な、浪費される自由たちの散乱。(略)だからこそ、バロウズの文はすべてちょっともの悲しい。》
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こうした山場を読み通し、付録D「バロウズ研究者のために」あたりまで来ると、いささか引き潮を眺めるようにページをめくることになるだろう。ところが、度を超えて親切で詳しいそのガイダンスが、また一つ新しい波を呼び込んでくる。ここでやっているのは、研究生産流通という事業推進のための情報公開であり、市場開放のための規制緩和だ。もちろんバロウズという特定業種についてだが、この方向性には普遍のパワーがある。そういう角度で改めてこの一冊を振り返ると、山形は、バロウズ論というソフトを公表すると同時に、そのソースも「はいどうぞ」と公開したということになろう。それこそ究極のぶっちゃけだ。
逆に、そうした開放性を損ね生産を神秘化していたのが、一部のポストモダン系だったのかもれない。そうして積み重なった論文の不良債権を、この本は殊勝にも処理しようとした。とはいっても、その処理はかなり手荒だ。山形はバロウズの絶筆にあったらしい「愛」という言葉に照れまくりながらも、バロウズへの愛は満開にしている。だからこそこの本は面白い。それと対照的に、ポストモダン系に対してはまったく愛がない。そうなると、山形ではなくポストモダン系をこよなく愛する書き手によるポストモダン系の処理をも読んでみたいものだ。ポストモダン系とはひとつの老人病かもしれないではないか。冷たく病名を告げるだけでなく、丁寧な検査・診断・治療を重ねてこそ、終末医療たりうる。それは山形がバロウズにしてあげたような手当てだ。
まあそれはともかく、情報公開と規制緩和という方向性からは、「自由の貯め込み」に陥らず「自由を使え」という先ほどの呼びかけが、また沸き上がってくる。そこには、そもそも著者がこの本を生み出そうとした意図や苦悩までが透けてみえる気がする。
《……答えから逃げるうちに、みんなもとの問題すらわからなくなってきて、おどおど立ちつくして、自分が何もしないことを正当化することでマンパワーを消費しているだけ。市は栄えるどころか、市そのものがあるのかないのかもわかんなくなってる。よそうよ。答えを出そうよ。正解がなくったって。近似解くらいは出してみなきゃ。》(「序文と謝辞」より)
バロウズをただ読む自由から、バロウズについて発言する、使う、アウトプットする自由へ。そう、この本は、自由ということの、メニューではなくレシピを、自らによって示したのだ。
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では、最語のぶっちゃけ――。
「山形さんって、やっぱどっか、勝ち組ビジネスマンぽいよね。読書のコストが時間じゃなくて時給なんだもん。グローバル企業は嫌いじゃないって言うし。動的に価値を創り出せ、なんてのも、引きこもりやフリーターには辛いや」
「でもなんのかんのいって、仕事がきっちりしてるだろ。バロウズについて書き尽くすと年次目標を立てて、どうにかやり遂げてしまうんだからさ。だからこれ、バロウズ本っていうより、ヤマガタを総覧する本なんだぜ」
「で、自己評価も堂々とできる人なんだな、これが。まあそれが目立ちすぎるのは、逆に照れかもしれないけど」
「ともあれ、時代は変わる。これからは山形流の言説だよ。それこそ新しい教養主義を標榜する若いやつにゃ、スタンダードになってくるぞ」
「でもねえ、山形流が人畜無害ということはないでしょ。いつかまた、ポモにも似た症候群を生んでしまうんじゃないの」
「その時はその時。たぶんまた誰かが、自分を王様だといって憚らないこの率直な王様に、あなたこそ裸だと告げるだろうさ。でも、そんなことがあるにしても、たぶん20年は先」
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*このレビューのことを山形氏にメールしたところ、
すぐ返事をくださり、リンクもしていただいた。
感謝します。