小説とは何か(こんなにわからなくていいかしら)――『現代詩手帖 特集版 高橋源一郎』に沿って (1) ――
保坂 わかる者にはそれはわかる。だが、わからぬ者にはいくら説明してもわからぬ。それが「小説性」じゃとて。つまるところそこよのう。(やや改竄 by Junky)『現代詩手帖 特集版 高橋源一郎』では、高橋源一郎と保坂和志が「〈小説〉とはなにか」と題して対談している。小説とは何か、それが本当にわかっている作家はとても少ない。ただ二人はその少ないほうに入る。――これを暗黙に認め合っているようなので、神秘を神秘のままやりとりして快哉、といった仙人どうし(在鎌倉)の会話みたいにもなる。とはいえ、下界になるたけ伝えようと懸命でもある。
高橋 「小説性」を説明することはとても難しいにょ。それはいわく言いがたい玄妙なものだからではなくて、ある意味で、あまりにも簡単なものだからだにょ。(同)
二人のまとった美しい衣があなたには見えるか。それとも、しわやしみが目立ってきた裸の仙人がそこにいるだけか。いずれにせよ、もし本当に小説という不思議な衣が見える人がいるなら、その人には、衣の見えない人はあまりに哀れに映るのだろう。ここはひとつ、「見えているような、見えていないような、でもまあなんとなく見えているかな」という小さな信念を捨てずに迫りたい。
小説とは何かを言い当てるため、二人はいくつかのアプローチを試みる。そのうち私にいちばん示唆的だったこと――。
《高橋 そこにボールが来ないと当らない。(…)ある空間のなかに入ってくるとボールが当る。それを小説と呼んでいるんだよね。だから逆に言うと、小説性を発揮できる場所を小説と呼んでいるだけなのかもしれないね。》《それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと関係ない。そのなかで、何が書いてあってもいい。数学の話でもいいし、思い出でもいいし、ホラ話でもいいし、何でもいい。「小説性」さえあれば。》
ここを読んで「あっ」とヒラメ板。そうか、小説とは「場」なのだ!
たとえば音波の伝わる空間を「音場」などと呼ぶ。音は、周囲が空気などに満たされているからこそ伝わるのであって、いわゆる真空であれば、弦や声帯をいくら震わせてもその振動は誰の耳にも届かない。重力や電磁波となると、太陽と地球が引き合ったり、宇宙船と交信できたりすることから分かるとおり、空気などの媒質がなくてもなぜか作用するが、これも、宇宙空間が重力場であり電磁場であるからだと説明される(この宇宙には重力や電磁力の作用しない場所は存在しないはず)。
では、小説を読んでいて、なんらか力が作用するとしたら、それは何故か。それは、言葉が小説という特別な場に置かれているからだ。使われた言葉が特別だったからではない。星の光は必ずどこかに伝わり、あらゆる林檎は必ずどこかに落ちる。かすかであれ、ゆっくりであれ、必ず。それと同じく、小説という場さえ成立していれば、どんな文章であれどんな展開であれ、必ず小説として作用する。その作用が働かないのは、それが小説ではないからだ。もちろん重要なことは、そうした特別な場を、書き手はどうやって拵えればいいのかだ。また、そうした場に読み手はちゃんと入っていけるのかどうかだ。
う〜む、しかしこれでは、むしろ小難しい仙人が一人加わっただけじゃ。衣が見えたとは言いがたいのう。
◆
では、もうひとつ参照してみよう。小説を詩との違いによって定義しようとするアプローチだ。ちなみに上の引用のすぐ前に発言されている。
《高橋 ぼくはよく言うんですけど、詩人が書いたものはすべて詩になるけれど、小説家は、小説を書いた結果、事後的に小説家になる。いわば詩的世界観というものがあると思うんです。そして、その世界観に沿って、たとえば吉増剛造さんが書けばぜんぶ詩なんです。ところが小説的世界観なんてものはないんだと思うんです。》
対談をさかのぼると、こうも述べている。
《高橋 ぼくは簡単に言うと「そのなかを通過することによって、認識の組み換えが起こるもの」が小説だと思っています。もちろん詩や評論にもそういう要素はあるけれども、詩は永遠の相で何かを一瞬照らせばいいので、読者は変わる必要がない。その一瞬に世界が見えたと思えさえすれば、それは錯覚でもいい。詩は時間を止めることができればいいんですが、小説はその中で時間の経過があって、そこから出たところで、認識が変わっていないと困る。》
このあたりを読んで私は、海外をぶらつく面白さを思い起こした。そうだ、小説を読む体験とは、旅行という体験に重ね合わせることができる。旅行には必ず始まりがあって、具体的な道順が一つだけ選ばれて、そして必ず終わりがくる。そこをただ通り抜けるうちに、たとえば歩く・食べる・話すなど何気ない日常における「認識」が変化してくる。そのような「場」がおのずと形成されてくる。旅行の本質とは、特別な都市や観光地で特別な出来事に遭遇することではない。空間の移動と時間の経過、それ自体と切り離せないのだ。
さらに詩と小説の違いについて。たとえばディズニーランドに入場すれば、ネズミの縫いぐるみをかぶった人間労働がミッキーマウスとして成立してしまう。そんな詩のような世界が、ロサンゼルスか浦安にはいつもある。そこではすべてが瞬時にディズニー性を帯びる。しかし、小説や旅行はそうはいかない。魔法はどこか特定の領域で起こるのではなく、空間や時間の推移としてまさに事後的に作用する。
ただし、ここで気がつくもうひとつのことは、我々は何ごとによらず「〜ではない」という否定型の定義ならあんがい強気でできるのではないかということだ。すなわち:ディズニーランドに行くとか、ミッキーマウスに会うとか、そんなのは「旅行じゃない」んだよ。
小説と旅行が重なる。これはひとつの喩えにすぎない。しかし確実なこともある。それは、「小説性」のことはさておき、今述べた「旅行性」のことなら、私はひとつはっきりつかんだと信じている点だ。これは、3日間の団体旅行でもつかむ人はつかむし、1年間の辺境旅行でもつかまない人はつかまない。そして私はこの「旅行性」だけが本当に正しいし美しいのだと、強気になれる。まったく別の正しさや美しさをつかんだと言う人もいるかもしれない。それでも、その人の言う「旅行性」が、私のつかんだ「旅行性」と同じか違うかは、たぶんすぐ判別できる。こうして私もちょっと仙人の気持ちになっていく。「わかる者にはそれはわかる。だが、わからぬ者にはいくら説明してもわからぬ。それが旅行性じゃ」。
◆
自分が書いているこれはいったい何だ。この問いに行き当らない小説書きはあまりいないだろう。しかし、この問いが小説を書く動機と常に全面的に絡み、問いの経過自体が小説になっていくような小説書きも、それほどいないのではないか。
そういえば、高橋源一郎が『群像』に連載中の「メイキングオブ同時多発エロ (4)」にこんな問答があった。「ぼく」にいつも大事なものごとを教えてくれる「タナカさん」は、料理番組を見ていて、「一本のパスタがパスタ全体のためにあり、パスタ全体が料理全体のためにある」ということを、井森美幸は正しく理解したようだと気がつく。そしてタナカさんは、井森美幸は料理を正しく理解しただけでなく、そのことを隠そうともしている、と考えを進めていく。
《 「料理を正しく理解している井森美幸」がいなければ、世界ははじまらない、とタナカさんは考える。
「料理を正しく理解する」ことは困難だ。すべてのシェフが理解できるわけではない。タナカさんは、料理番組を見ながら、そう考える。
「料理」というものの部分と全体、それから「料理」というものの目的と手段、それから「料理」というものの技術とメカニック、といったものが、幾重にも重なって「料理」という小宇宙を構成している。だが、それが小宇宙であるなら、あらゆる小宇宙がそれに服しているような、合理的な法則を発見し、そのことによって、ついに「料理」という世界の本質を極めることは不可能ではない。
「料理を正しく理解している」井森美幸になる、ということは、「料理」の小宇宙の法則の発見者の一人になる、ということだ。
しかし、小宇宙にはその「外」がある。
「料理を正しく理解」した時、井森美幸は、そのことも同時に知ったにちがいない、とタナカさんは考える。
「料理を正しく理解している」井森美幸は、「料理」の小宇宙の「外」にもまた小宇宙があることを知った。その時、人の前には、二つの選択肢がある。
一つは、ようやく到達した「料理を正しく理解している」井森美幸である自分を大切にすること、だ。
もう一つは、ようやく到達した「料理を正しく理解している」井森美幸である自分を、小宇宙の連なりである大宇宙の一部である、と見なすこと、だ。
井森美幸は、「料理を正しく理解している」自分が、大宇宙の中の小宇宙であること、を理解し、その理解をさらに推し進めるために、「料理を正しく理解している」ことを、そのことを知らない人々に対して隠した、とタナカさんは考える。》「小説とは何か」にも大いに関係する深淵な真理のように思えて長々と引用した。が、ただ読んだだけで、ただ書き写しただけで、結局なんのことだか私はちっともわからないのだ。申し訳ない。「ぼく」もまた《まだよく分からない》。タナカさんも《笑って、井森美幸になることは難しい、という》ばかり。どうしたものか。いちばんのポイントは「井森美幸がそれを隠す理由」だろうと見当をつけるが、一番わからないのも実はそこだから、なおさら仕方ない。
小説とは何か。旅行とは何か。料理とは何か。それはいずれもあるとき一挙にわかるのであり、わからないときは皆目わからない、そのどちらかしかないんだろう。そんなことだけは窺い知れてくるのだが…。
(続く)