『天皇の戦争責任』感想
(著者=加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣)



吟味された問いに、自分も答えてみようとして、しばしば言葉に詰まる。そしてぐっと胸が詰まる。そういう書物だ。天皇の戦争責任という問いに、これほど多様な根拠と多様な無謀があったとは。この問いをどう扱うかは、思考ということの多様な建設と破壊へ、さらには日本社会の建設と破壊へ、きっとつながっていく。



「天皇の戦争責任」を問う前に、そもそも「天皇の戦争責任を問うということはどういうことなのか」。これを執拗に問いかける第一部。歴史の解明、社会の解明というより、むしろ哲学的で、面白い。

橋爪大三郎と加藤典洋。エキサイティングなぶつかり合いが実現した。お互い相手に特別な信頼を置いているがゆえ、対決に容赦はない。そうすると、天皇への評価が、さらには、ものを問う手つきそのものが、時に激しくぶつかる。そういうところに立ち会うと、やはりこの問題は論じ尽くされたなどとは決して言えない問題なのだと感じる。ふだん私が足を取られてしまいそうなところに、賢明なこの論客たちもやはり足を取られかねない危うさもあるのだとハラハラする場面もある。

天皇擁護論であれ天皇批判論であれ、すでに各論拠はそれぞれ堅く堅く踏み固められているはずだ。しかし、あなたが、およそ思考するという行為や、責任を問うという態度に、真摯であろう謙虚であろうとする人ならば、この本を読み進むにつれて、きっと自らの信念の地盤がゆっくり揺らいでくるのを感じるだろう。

天皇の戦争責任という問題について、なるほどこれまで強い「主張」は徹底されてきたが、その実、強い「思考」が徹底されてきたとは言い難いのではないか。そういうことを思った。



天皇は公的な言動を禁じられた存在である。だから常に「・・・しなさい」ではなく「・・・を希望します」という奇妙なコメントになる。そういう話を聞いたことがある。戦争に敗れ、憲法が変わり、天皇は象徴にすぎなくなった。日本国の主権は日本国民に存する。天皇が政治をしてはならない。

しかし、かつての大日本帝国は「万世一系の天皇これを統治す」だ。だからそのころの天皇には漠然と皇帝・帝王といったイメージがある。

ところが、この本で橋爪大三郎が出してくる資料と解釈をみるかぎり、実は戦前においても、内閣と軍部が決定した政策を天皇が自らの一存で覆すというようなことは、かなり難しかったのだと感じ始める。もちろん、それに対して加藤典洋は別の解釈をもって反論する。それが、三部構成になったこの分厚い本の、真ん中の第二部だ。満州侵攻・日中戦争・真珠湾攻撃・無条件降伏などそれぞれの局面において、天皇はどう関与したのか、あるいはどう関与したかったのか。それが細かく検証されていく。日本の歴史を左翼的に信じるか右翼的に信じるかはともかく、この第二部は、無知な私に「う〜む勉強になる」という感想だった。



それにしても、橋爪大三郎という人の透徹ぶりは、ともかく印象的だ。加藤典洋の渾身ぶりを上回る。その橋爪大三郎は、昭和天皇は戦時も戦後も近代国家の君主として国際条約と憲法を踏まえた正当な行動をできるかぎり取った、と評価する。

「謝罪しないからけしからん」と言うけれど、それは戦後的世界に価値観をおいている者が言ってはいけないことだと私は思う。なぜかと言えば、天皇は、公的なものの場では憲法第七条の定める天皇の国事行為の一から十までをすることはできるが、それ以外はしてはならず、それらすべてについて内閣の助言と承認がいるわけでしょう。だから、天皇として行動しているかぎり、政府か国会かどこかが言い出してそれを決めないかぎり、個人の判断で戦前の戦争責任について謝罪することはできないし、してはいけない。だから、なにも言わなかった。(橋爪)

天皇は、合憲法的に行動しようとする人ですから、退位の規定がなければ、公人として退位はできないと考える。そこで、退位したいという気持ちがあったとしても、それを個人の私情として表にだすことはないのです。(同)

こういう見方は、なんというか、新鮮だ。それは、私がそもそも戦争の歴史をしっかり勉強したことがないうえに、とりわけこういう「天皇を評価する見方」にほとんど触れてこなかったせいでもあろう。

日本の学校では「侵略」の歴史を詳しく教えない、という非難がずっと主流だった。しかし、事態はどこかで逆転したのではないか。そういうところが「新しい日本の教科書」が登場してくる土壌ともなっているのだろう。そして戦後民主主義的左翼傾「天皇制反対」であるはずの私が、なんとなく違ったニュアンスのことを今こうして書いてみる土壌にもなっているのだろう。



で、第三部はどうかというと、今読んでます。第一部の戦争責任の原則論、第二部の戦争責任の具体論に続き、第三部は戦争責任の総論という感じ。ここでは、徴兵されて戦地に赴き人を殺し自らも殺された臣民の話が出てくる。その行為は、正しくはなかったのか、間違ってはいなかったのか。そう言える根拠はどこにあるのか。途中で飽きてくるような本ではないが、ここまで来て問いの切実さの度がぐんと増してきた感じだ。

加藤典洋の発言にも、竹田青嗣の発言にも、引用したい箇所が多くある。もっとうまくまとめて、この本の重要性をはっきりさせたいと思うが、それは、全部読んでからのお楽しみ(お苦しみ)にしよう。



さて、さきほどの橋爪大三郎によれば、天皇は「個人として謝罪したいと思っているとかいないとか言うことが、公人としての発言と受けとられてしまうといけないから、そもそも個人としての発言をひかえ断念するという立場をひき受けている」ということになる。そのためか、戦前と戦後を長く生きた昭和天皇は、自らの体験や見解について詳しく書き残すなどということはしないまま、黙って死去した。1989年。天皇の戦争責任というまさにこの問いについて、本人の口から正直な思いを聞かせてほしかったともいえるのに。

現在の天皇明仁や皇太子徳仁はどうするつもりだろう。日本や世界の過去現在未来について、あるいは自らの立場について、彼らがまったく脳天気なウツケ者だとは明らかに考えにくい。それなのに、彼らが自らの考えをまとめたり人に伝えたりといったことが、平成の世も、そのまた次の世も、ずっとかなわぬままなのであろうか。

天皇がこっそりホームページを開設し、匿名で日記をアップするというのはどうだろう。なかなか気のきいた思いつきじゃないか。いや待てよ、これだけパソコンが普及した昨今、皇室だってもうネットサーフィンくらいやってるか。すでに秘密のホームページが存在し、正体不明のままじわじわアクセスを増やしていないとも限らない。あるいは、夜ごと2ちゃんねるに書き込みしているとか(そういえば、そういうハンドル名の人、いたっけ)。では天皇のメールアドレスを教えてくれ。akihito@imperial.comか。「誠に遺憾に思います。いやしくも朕は日本国の象徴でありますから、純国産のドメインを希望します」「しからば陛下、akihito@chiyoda.co.jp、またはakihito@koukyo.co.jpではいかが」「あのさ、うちは会社じゃないでしょ。だいいち、それってもう登録されてんじゃないの。どれどれ・・・あっ・・・ああっ!」「・・・えーと、ではやはり、akihito@tennou.go.jpということになりましょうか・・・いや、陛下は政治(go.)に関ってはならないことになっておりますので、これも具合が悪うございます・・・困りましたなあ」=続く=



さて、もっと深い解読へと、リンクしておこう。


Junky
2001.3.10

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