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小林紀晴の「東京装置」

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小林紀晴の「東京装置」を読んだ。

猿岩石やドロンズが旅立ちのきっかけになる人がいるように、僕が二度目に会社をやめて旅行しようと意を決した時、この人の著書は間違いなく影響した。一冊目の「アジアン・ジャパニーズ」だ。アジアを放浪するニッポン人の、旅先と帰国後の心情がつづられている。

その旅から戻って間もなく、同じ小林紀晴の「アジア・ロード」が出た。僕が見てきたばかりのバンコクやチェンマイ、ホーチミンの名があり、真っ先に読んでみた。ところが「アジアン・ジャパニーズ」で経験した沸き上がるような共感が生まれない。不思議だった。しかし理由はなんとなくわかった。「アジア・ロード」に出てくるのは、バンコクでバンコクするバンコク人の話なのだ。僕はわざわざ飛行機で日本を離れバンコクやホーチミンやプノンペンを長々と歩きながら、実は、ずっとニッポンのこと自分のことばかり考えていたのだ。そのことを思い知らされた。だから「アジア・ロード」の文章で僕が最も引き込まれたのは、エピローグ「東京」だった。

そんないきさつがあったから、「東京装置」を、僕は今度こそ本当に期待して手に取った。そして期待通りだった。

「東京装置」は、著者自身と無名の人々がそれぞれ東京暮らしの実際と感想を語った本だ。最後に出てくる人が最後にこう呟く。

「東京は、なんだか旅の途中のトランジットルームみたいな気がする。日本なのに日本じゃない。国なんだけど、国じゃない。国籍がない箱のような気がする。」

やっぱりあなたもそう感じるでしょ、僕もかねがねそう思ってたんだ、いやあまったくそうだよねえ....といった興奮が生まれるまでもないほどに、本当に当たり前の、しかしいちばんぴったりくる結論だと思った。

ところでじゃ僕が最初に会社をやめて海外旅行に出たきっかけはというと、実にありがちの「深夜特急」だが、その懐かしの書がテレビ番組となり、それをまとめた本も出た。その番組と本について藤原新也が、電波少年と同様のものとして批判し、それを許した沢木耕太郎にも矛先を向けていた。

旅はどんなものであってもかまわないが、なにかのイメージだれかのイメージをなぞることであってはつまらない。みんながそう言う。僕もそう言う。しかし、猿岩石が旅に一つの固定的なイメージを与えたように、藤原新也もまた別の固定的なイメージを作っている。どちらがホントのイメージでどちらがウソのイメージかは知らないが、とにかく僕らはそういうイメージからは絶対にと言っていいほど逃れられない、その自覚のほうが実は旅にとって大事なのではないか...とこれは僕がひそかに信じていることです。

そして、ふと思ったのは、小林紀晴なら、深夜特急テレビ版の書籍版を、あれほどあからさまには非難しないのではないかな、ということでした。だからどうだというのでもないけれど。

続く、かも。



旅の話、もっと聞きたいって?
[著作=Junky@迷宮旅行社"http://hot.netizen.or.jp/~junky"]
Junky
1998.1.31

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