「尊厳ある貧乏」とはもちろん「尊厳ある死」からの連想です。貧乏を忌み嫌い贅沢を維持しようとするあまり、ある種の尊厳を忘れてまで金を稼ぎ金を使う、そういう生活からの脱却を願った言葉でした。その前提には、商品の価値観(これいいね)や消費行動(これ買おう)が、今や経済の仕組みや社会の制度にすべて操られているという見方があります。そういうことにまるっきり無自覚でいては、浪費するばかりなのです。
ただこれは、収入のない暮らしをなんとかエラく見せるための詭弁とも言えます。実際、僕の生活はここしばらく「尊厳ある貧乏」というより、はっきり「尊厳なき貧乏」でしたから。これは最も悲しい。
もちろん「尊厳なき貧乏」だって「尊厳なき贅沢」に比べたら、よそにツケを回さず自立している分、偉いと思うし、現代文明の行く末を考える場合は、まさに「尊厳なき貧乏」か「尊厳ある贅沢」かという厳しい選択を余儀なくされるかもしれません。しかし、このあたりはまた別のテーマです。
さて、そうこうしているうちに、とうとう僕も仕事に就くことになりました。こうなると「尊厳なき貧乏」よりはつい「尊厳なきちょっと贅沢」に流れる危険性が出てきます。そこをどうにか踏みとどまって、せいぜい「尊厳ある弱貧乏」を心がけるべし。
=尊厳貧乏物語・完=