無意味は確実に繰り返される。
それは人生のことですか?
シベリア寒気団のことですか?





終わらない観光旅行。繰り返されるジェンカの響き。この芝居はまるでこの劇団のようでした。

僕にとってシベリア寒気団は付き合いの長い人関わりの深い人がいる劇団です。普段見に行く「大衆館」は劇団のホームグラウンドであり、キャストやスタッフばかりか観客にも慣れ親しんだ人がいます。靴を脱いで座布団にすわる客席と、そこから眺める狭い舞台は、その構造すら熟知しています。濃密な空間。明かりがついて目の前にお馴染みの役者が現れ最初の台詞が聞こえると、もうそれだけで、芝居の世界に、シベリア寒気団の公演という出来事の中に、時のたつのを忘れ、すっかり包まれてしまっていたのです。

今回は東京という異国の、広く高いステージがあり、客席も据え付けの椅子がずらりと並ぶ、つまり一般的な劇場でした。受付けには演劇祭の主催の人がいて、やって来るのも知らないお客さんばかり。これまでのシベリア寒気団の観劇が僕にとってかなり特殊なものであったことを知りました。初めてこの劇団を客観的に、物理的にも心理的にも少し離れて、あるいは上から見たかもしれません。

その結論が、観光ジェンカはシベリア寒気団に似ている、でした。

これで何作目になるのでしょう。数えるのはもうやめました。笑い。涙。実験。哲学。繰り返し。繰り返し。ふぅっと気がついてみれば、劇団の皆様もいつのまにやら経験と齢を重ねていました(僕もまた年だけは同様に重ねているわけですが)。この芝居の二日ほど前、実は親戚の葬式に出向き、若い印象だった叔父さんが急に定年間近で年金の話を始め、赤ん坊だったはずの従姉妹が子供を抱えていたのも、そういうわけだったのでしょうか。

さて。

ストーリーを絞り出し、作り上げ、落とし込む。その繰り返し、繰り返し。日常に奇想の謎をかけ、それにポップの輪をかけ、さらにもひとつ輪をかける。その繰り返し、繰り返し。動き回り、とぼけまくり、ハラを据えた最後の台詞に怪しげながらも感動の渦。その繰り返し、繰り返し。シベリア寒気団の芝居に、僕はこれまでいろいろな角度でそうとう深く考えさせられ、そうとう深く納得させられた覚えがあります。しかし、その思索とか理解とかがその後どうなったかというと、実はそんなものはどうでもいいのです。

マグロ桟敷、イエ〜(遺影)と言うからイハ〜イ(位牌)、自転車に乗れないという事実に気がつかないまま日本一周の旅に出ている、「なんて店なの!」「だからミズカキ亭」。チカオ。こういう本筋とは関係のない徹底したくだらなさが隙をついてかすめ飛ぶ。観光ジェンカの脚本も演出も演技も、三百人劇場のステージも観客も、さらにはシベリア寒気団という歴史も、実はこういうおまけのように見える無意味を地雷の如く埋め込むための舞台としてこそ仕込まれていたのではないでしょうか。

終わらないのは、生活のようになってしまった観光旅行だけではありません。坂本九が明るく元気に歌い、それに乗せられて意図もいわれも知らぬまま踊る楽しく哀しいジェンカの響きだけではありません。深刻な本筋をすり抜けるように、本来の目的をかいくぐるように転がり出てくるナンセンスこそ、確実に存在し続けるのであります。そして、大事なテーマもそこにはあると認識しつつ、ではそれが一体何だと問われるとおぼろげなので、仕方なくまた先送りし、あとで思えば無意味な寄り道ばかり繰り返し、そうこうしているうちに年老いていく人生とやらも、さらには、そういうことを感じさせる、というよりはそういうことそれ自体であるかのようなシベリア寒気団もまた、永遠に終わらない。ことを願ふ。

お疲れさまでした。

*なお写真の一番後ろは脚本の瀬川氏かどうか不明。

シベリア寒気団「観光ジェンカ」東京公演データ


Junky
1998.10.12

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