死刑執行

 東京政権(日本国政府)は12月21日、3人の囚人を殺害した。(新聞報道による)
 なにをかくそう、僕は死刑制度に反対する市民グループ「かごの鳥をときはなてフォーラム93」(事務局は福井市内)につきあいで入ってしまって以来、死刑反対運動をする数少ない人間の一員なので、やはり書いておく。パソコン通信「リンクリンク」に載せたものと同様である。

その1

「死刑執行に抗議します」と書いたのは、死刑廃止運動の一環と意識してのことです。リンクリンクでの発言は今や駅前でビラをまくのに負けないほどの力がある!・・・といいですね。
 しかし「なんで」と素朴に聞かれるのはけっこうつらいです。思考する側が時として運動を毛嫌いするように、運動する側はつい思考をおろそかにしているからです。死刑問題については僕ははっきり反対運動をする側です。ハタから見ればもはやねじ曲がった考えが染みついているかもしれません。なるべく正直に書きます。
 死刑があったというニュースを聞き、それが誘拐などで何人もの人を殺した犯人だと知らされれば「まあ仕方がないか」とつぶやくのが普通かと思います。そういう因果応報というか、悪いことをした奴は痛い目にあって当然だという理屈は僕にもあります。もちろん、殺された人の肉親なら、犯人が首をくくられたことで、なにか頑張るよりどころを見つけだすのでしょう。
 しかし、そういうことがなにか本当に建設的な意味を持つでしょうか。実質的な進歩につながるでしょうか。死刑制度にまったく益がないとは思いません。今述べた「気が済む」ということも重要だと思いますし、死刑こわさに悪さをやめる人がひとりもいないとは断言できません。ただ、それくらいの理由では死刑をわざわざやるほどの説得力を僕は感じないのです。
 なぜか。それは死刑が持つ負の側面、悪の側面をもっともっと重いと考えるからです。ここが議論のスタートだと思います。その負の、悪の側面については、少し書き込みがあるようです。死刑廃止を言う側はかなり偏屈な印象を与えるかもしれませんが、死刑について知り考えた経験も長いと思います。これを機にどうか耳を傾けて下さい。

その2

 死刑反対の主張に結局は首をかしげる皆さんへ。
 >死刑反対論をとなえる人は『罪をにくんで人をにくまず』がベースにあるのでしょうか。しかしこれって偽善っぽくありませんか。(Aさん)
 確かにそういう人が多いような気がします。
 でも僕は、誰かに嫌な思いをさせられたらその罪を憎むしその人をもっと憎みます。そういう感情が恥ずかしいとも感じません。でも国の死刑制度に反対するのはそれとは別の理屈です。
 Aさんが誰か親しい人を殺され目の前の犯人を自分の手で絞め殺したいがそれは正しいことか悪いことかと悩んでいるのなら、僕は一般論で答えるつもりはありません。一緒に悩むかも知れません。やめろと言うか手伝おうと言うか、それすらわかりません。
 しかし、殺された人や殺した人と直接の関わりがない場合、国の死刑制度を廃止すべきか存続すべきかを考えるとしたら、それはどうしても一般論にならざるを得ないと僕は思います。そして僕は一般論として死刑制度に絶対反対なのです。
 >わたしは死刑覚悟で罪悪を犯す奴がいることを考えると、死刑肯定論をとりたいと思います。(Aさん)
 僕も死刑覚悟で罪悪を犯す奴がいることを「考える」と、そんなやつは死刑だ!と思わず叫びそうになります。が、それでもなお「囚人を絞殺できる制度を日本国政府は法で禁止すべきだ」という一般論を主張し続けます。一般論なので偽善っぽくなるのは仕方ありません。偽善と見られるのは恥ずかしいことですが、死刑廃止の一般論を主張するために我慢しているのです。これまた偽善っぽい?
 殺人事件が報道された時、常に殺された被害者やその遺族の悲しみにばかりに同情し、犯人やその家族、過ちを犯した背景などに思いが全然及ばないとしたら、死刑制度を議論するには冷静さを欠いています。また遺族をどう救えばいいのか、社会をどう安全なものにしたらいいのかを考える時に、常に犯人の処遇ばかりに目がいくのも、死刑制度の一般論というには情報や視点が不足です。僕はそう思います。


Junky
1995.12.27

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