・・・でもゴダールは、こんなことを言っている。

私には映画を一本つくるたびに次第に、映画の唯一の大きい問題は、カットをどこでなぜ始め、そのカットをどこでなぜ終わらせるのかというところにあると思えてくるのである。要するに人生は、蛇口の水が浴槽を満たし、それと同時にその浴槽の排水口から同じ量の水が流れ出ていく場合の水と同じようにスクリーンを満たすのである。

「サムライ・フィクション」は文句なく楽しめた。最高の質と最良のセンス。大成功の映画だ。ひとつの表現が到達できる限りの正解に近づいた、と監督も感じているかもしれない。

ではゴダールは。それぞれの作品の質は高いのか。センスは良いのか。???。あるいは、どうやったら質がもっと高くなったり低くなったり、センスがもっと良くなったり悪くなったりするのだろう。いや、それは不可能だ。こうすればもっと正しい映画になる、そういう座標そういう見方を放棄しないと僕はゴダールの映画が楽しめない。いや放棄しても楽しめないのだけれど。(そもそも映画を楽しむって何のことだったのか)

ゴダールは、映画として、表現として、正しいのか誤っているのか、成功したのか失敗したのか、そんなこと誰も、少なくとも僕には全然、わからない。

「サムライ・フィクション」には映画の面白さのすべてがある、と僕は書く。

ただ唯一「サムライ・フィクション」にないもの、そしてゴダール映画に充満しているものといえば、「なぜ」という執拗で巨大な(いや小さくてもいい希薄でもいいのだが)疑念である。

そしてまた「サムライ・フィクション」にあってゴダール映画にないのが、答、とりわけ正しい答である。映画というものについて、何かをしゃべったり書いたり作ったり発表したりすることについて、人生というものについて、ありとあらゆるものについて、疑い、考え込み、問いまくり、そして、常に正答を示してくれないのがゴダールである。ような気がする。

とにかく。「サムライ・フィクション」はオススメ。ニッポン映画の誇り。同時代の誇り。

*ゴダールが「カイエ・デュ・シネマ」1965年10月号に書いたという文章の一部。 渋谷シネアミューズで「サムライ・フィクション」を見終わった後、ロビーで見つけた「気狂いピエロ」リバイバルのチラシから引用しました。


Junky
1998.8.27

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