クオリアと意識の謎
実は、茂木健一郎さんにインタビューする機会に恵まれた。ローカルながらテレビの仕事。直接お話を聞き、それを整理していく作業のなかで、「クオリアないし意識とはどのように特異なのか」が、個人的にだいぶクリアになった。よい機会なので、このテーマについて自分の思うところをざっと書き連ねてみた。
(1)クオリアとは知らない人のために紹介すると、茂木健一郎さんは、脳から意識が生まれる謎を根本から問い直そうとしている研究者だ。その思考の出発点には「クオリア」という手がかりがある。
http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html「クオリア」という言葉は、馴染みがないとかえってややこしく捉えがちだが、ちっとも難しい意味ではない。一言で言えば「感覚の質感」、もう少し言えば「我々のさまざまな感覚に伴うありありとした質感」ということになる。たとえば、赤いリンゴや青い空を見ているときの、あの赤い感じ、あの青い感じ。いかにもリンゴらしい赤そのもの、いかにも空らしい青そのものをクオリアと呼ぶ。ものが見える仕組みの話ではなく、ものが見えるときの「感じそれ自体」にあえて注目するのだ。視覚だけでなく、たとえばバイオリンの音を聞いているときのあの音の感じ、カレーを食べているときのあの味やあの匂いそのもの、毛皮に触っているときのあの触感、いずれもクオリアだ。
しかし「それがどうした」と言われるかもしれない。「赤いリンゴが赤く見えるのが、なにか不思議なのか」と。しかし「それはまさに不思議なのだ」と私はつくづく思う。
(2)クオリアのどこが奇妙かそのクオリアの不思議を、「非物質性」「主観性」の2つに括ってまとめてみる。
非物質性。すなわち「物質とはいえない」ということ――。リンゴを見るとき、リンゴに反射した光が眼から脳に届く。光は電磁波の一種だ。一定の波長をもったその電磁波の刺激に応じて、脳のニューロン(神経細胞)が一定の電気的・化学的な信号を発する。その信号が無数に行き交うことで、私たちは「赤い」と感じる。しかし、電磁波がそもそも赤いわけではなく、ニューロンが赤くなるわけでもない。リンゴの赤い感じは「脳の中で作られる」と言ったほうがいいのだ。このとき、リンゴも電磁波もニューロンも物質であって、同一の物理法則で記述できる。しかし、そのとき我々が感じている「赤い」という感じそのものは、物質とは言いがたく、質量や速度といった物理データで記述できそうにない。結局、脳という物質の働きから、「赤い」という、物質とは違うなにかが生じている、ということになる。
主観性。すなわち「私のクオリアは私にしか感じられない」こと――。青い空を見て私は「青いね」と言い、隣の人も「うん、青いね」と言う。しかし私が「青い」と言っている「この感じ」を、隣の人が同じように感じているのかどうか、それは絶対に確かめようがない。リンゴに反射する電磁波の波長は、私にも隣人にも同じであることは間違いない。お湯の温度は、私が測ろうと隣人が測ろうと変わらない。しかし私が見ている「リンゴの赤そのもの」は私にしか分からない。私がお湯に手をつけたときの「熱いという感じそのもの」は私にしか分からない。
非物質と主観性。これは、科学が対象にしてきた「物質」、科学が基盤にしてきた「客観性」、そのどちらとも完全に相容れない。クオリアとはそれくらい奇妙な有りようをしていることになる。事実、近代科学は、人間の行動を「刺激と反応」だけで説明し、その「刺激と反応」が起こっているとき、その人間が「どんな感じなのか」は無視してきたと、しばしば評される。
クオリアというものを注視すると、こうして極めつけの特異さ奇妙さが浮上してくる。そしてこれらは、どうやら意識と呼ばれるもの全体に当てはまる。
(3)「意識とは何か」とは何を問うのだろうさてそうなると、クオリアや意識とは幽霊みたいですらある。しかし、幽霊が肉体とは別個の存在と信じられているのに対し、意識はあくまで脳を離れては存在しない。脳の働きなしには生成しない。そこは科学の立場が今のところ譲れない点だろう。つまり脳と意識は二元論ではない。ただそれでも、意識がもし脳と違って科学の対象になるような物理的実体ではないということ自体、これはもう単純な一元論とも言い切れないのか…。
逆に、意識について大いに首をひねっているところに、「意識なんてべつに謎じゃないよ」と断じる人も出てくる。どういうことか。「眼球がリンゴをとらえ脳のニューロンがそれを処理すること」それがすなわち「リンゴが赤く見えること」とイコールであって、わざわざ「クオリア」などという余計な言葉を付け加える必要などない、という主張があるのだ。そう言われると、「意識とは何か」という問い自体がにわかに漠然としてくる。この問いはそもそも正当なのかという疑いも頭をもたげてくる。
そこを考えるのに、「情報」や「記号」という概念が参考になるかもしれない。これらはともに「あるものがあるものとして表わされる」作用だろう。そのとき、その作用を媒介するのは紙やインクや音声や電波といった物質だが、「情報」や「記号」自体は物質とは言えない。それに倣えば、意識もまた「あるものがあるものとして表される」作用として捉えることができそうだ。意識とは作用にすぎず、しかも作用として一体であるのに、そこからわざわざ「あるもの」を分離し実体化し「これは何だ?」と悩んでいるだけなのかもしれない。
養老孟司の『唯脳論』は「心とはすなわち脳の機能である」という見方を示した。つまりそれは「消化とは胃の機能である」「循環とは心臓の機能である」と同じことで、胃や心臓をいくら解剖しても「消化」や「循環」が出てこないように、《脳という「物」から「機能」である心が出てくるはずがない》と書いている。(これはしかし、心が脳と別個にはありえない根拠として述べたのであり、養老氏が「意識とは何か」という問いをナンセンスとして退けたわけではないようだ)
しかし、これらの猜疑にも関わらず、「意識とは何か」という問いはやはり正当な問いだという信念を私は捨てきれない。その信念は、私が生きるということの全てにおいて意識というものは圧倒的であり決定的である、という存在感から来るのだろう。意識は、リンゴの赤や空の青から始まって複雑な思考や感情に到るまで、鮮明な現象でありすぎる。刺激の入力と反応の出力以外は何もないといった割り切りはできるものではない。実際、内的な質感であるという側面だけは、「意識」は「情報」とも「循環」とも違った位置にあると思われる。
*この議論については、最後の(9)も参考に。
(4)意識解明のイメージところで茂木さんは、昨今の脳科学の発展を「ルネッサンス」と形容し、意識がついに科学の対象になってきたとみる一方、そのレベルはまだ「錬心術」だと言う。黄金が生成する第一原理を知らなかった錬金術の時代になぞらえ、我々はまだ脳と意識を結びつける第一原理すら手にしていないと述べるのだ。
ならば、錬心術を脱する「意識の第一原理」は、どんなふうにもたらされるのか。今回、茂木さんは「科学の偉大な発見は、まったく性質が違うと思われた二つのものを結びつけるかたちで為されてきた」と語った。例として、リンゴが落ちる運動と天体の運動をニュートンが同じ万有引力で説明したこと、そしてアインシュタインが示した「E=mc^2」を挙げる。E=mc^2は、エネルギーと質量・光速度がイコールで結びつくという衝撃的で奇怪な数式であり、誰しも「なんでそうなるの?」と呆然とせずにはいられない。脳と意識の関係も、いかなる等式で結ばれるのか、そもそも等式になるのか、今はまるで見当がつかないが、解明された暁にはそれくらいファンタスティックな法則が見出されるのかもしれない。そのイメージを茂木さんは「E=mc^2」で代表させたと思われる。
(5)問いを整理しよう。私が思うに、意識の謎をめぐって2つの問いがたてられる。
〈A〉クオリアや意識は、脳からいかにして生じるのか。
〈B〉クオリアや意識は、そもそも何なのか。〈A〉と〈B〉は厳密には違う問いだ。脳から意識が生じるメカニズム、つまり「リンゴを見てリンゴが赤く感じられる脳のメカニズム」を解明することと、「赤いというこの感じはいったい何ものなのか」に答えることは、やはり別だ。「E=mc^2」のような結実を目指すのは、どちらかといえば〈A〉の探求だろう。一方で(3)にあった「意識を問うとは、何を問うことなのか」といった思案は〈B〉の範疇だろう。要するに、〈A〉は物理学的な問い、〈B〉は哲学的な問い、ということになろう。
(6)意識に気づくこと・意識を見つめることいずれにせよ、2つの問いに即答できる人はいない。答に近づく道すら見えてこない。
我々が今できるとしたら、意識ということの不思議に「ふと気づくこと」、そしてそれを「じっと見つめること」。――とはいうものの、意識があるのはあまりに当たり前のことなので、その気配をわざわざ意識するには、ちょっとしたレッスンが必要だ。
たとえば自然界には「上空の水分が帯電して地表との間に放電が起こり空気が振動する」という現象がある。物理データとしては「エネルギー:1億ジュール 総電荷:5〜200クーロン 電圧:1億〜10億ボルト 電流:1万〜10万アンペア 放電時間:1/1000秒 放電通路(幅:30cm 温度:30000度C 気圧:10気圧)」などと表される。
この現象を我々は「雷」として感じとる。稲妻や雷鳴というクオリアによって一挙に把握する。
《火星人の科学者は、たとえば視覚というものを理解していなくとも、物理現象としての虹や稲妻や雲を理解することができる。もちろん彼には、人間的概念としての虹や稲妻や雲を理解し、それらが人間の現象的世界の中で占められている位置を理解することは、望むべくもないだろうが。》
《稲妻は、その視覚的な外見によっては汲み尽くしえない客観的性格をもっており、それは視覚をもたない火星人によっても探究可能である。正確に言えば、稲妻はその視覚的な外見に現れている以上の客観的性格をもつのである。》
(トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』p280 永井均訳 )これに似たこと。リンゴの糖度は機械で測定できるが、我々は「甘い」というクオリアで分かる。お湯の状態は温度計でも示せるが、我々は「熱い」というクオリアで分かる。
これらをよくよく見つめてみると、次のようなことが納得できるはずだ。
《〈私〉の心の中のコップのイメージは、確かに眼前の空間にある現実の「コップ自体」の写しである。色や透明感、光沢などクオリアのかたまりとして心の中に存在する表象を通して、私たちは、決して到達しえない目の前の「コップ自体」を知る。周囲に対して開かれた公共的存在としてのコップ自体は、私秘的存在としての意識の中に存在するコップのクオリアを介してのみ、〈私〉に了解されるのである。》
《…脳内現象としての私たちの意識の中で感じられる様々なクオリアは、現実自体の写しに過ぎないものの、決して現実から遊離することなく、私たちの生を現実のこの世界に着地させる上で大きな力を持っていることがわかる。》
《…意識の中で感じられる様々なクオリアは、〈私〉の意識の中でそれが感じられることで、〈私〉にこの現実の世界の消息を様々な形で伝えているのだということがわかる。》
(茂木健一郎『脳内現象』p217~220)意識が脳からどのように生じるかは難問だとしても、「世界がこのようにあって私がこのようにある」という基本中の基本の認識において、意識がどのような位置にありどのような役割を果たしているのかが、うかがい知れてくる。
ちなみに、意識を欠いた人間を「ゾンビ」として仮想することがある。ゾンビはたとえば雷を我々と同じように怖がるが、稲妻や雷鳴のクオリアは生じていない。お湯に手を引っ込めるし、カレーを美味しそうに食べるが、あの熱さやあの美味しさは感じていない。おかしなことに、科学が「刺激と反応」だけで人間を記述するのは、その人間がゾンビであるかないかには少しも関心を払っていないということになる。しかし私はゾンビではない。あなたもきっと違うだろう。人間が備えているものすべてから、ゾンビが備えているものすべてを取り除いたとき、そこに残るものが「意識」だ。
(7)意識は人間だけのものか意識の謎をめぐって、個人的にどうしてものめりこんでしまう問いがある。それは――。猫にも意識があると思うが、間違いないか? 石には意識がないと思うが、間違いないか? では金魚はどうか? カブト虫はどうか? またそのクオリアを想像できるのか?
初めに書いたように、隣人が見る空の色はその隣人にしか分からない。それとまったく同じで、そこに寝そべっている猫がこの空をどんな感じでどんな色合いで眺めているのかは、その猫にしか分からない。猫や金魚がお湯に触れて「アツイ」というクオリアを感じるのかどうかも、確かめようがない。しかも、脳から意識が生じるメカニズムが解明されていない以上、他の生物に意識があるかどうかは原理的に明言できない。科学の立場としては、そのような理屈になるようだ。
とはいえ私は(多くの人がそうだろう)、少なくとも猫には意識があると思っている。猫を「意識があるものとして」扱うだけではない。ズバリ「猫には意識がある」と思っているのだ。金魚やカブト虫にもなんらかあると思う。アメーバとか細菌となると、いよいよなんとも言えなくなるが…
これに加えて、ロボットや機械には意識はありえないのか? どうしたら生じるのか? この疑問も私は捨てきれない。
茂木さんによれば、こうした問答には諸説入り乱れているのが現状らしい。意識は人間の脳にしか、しかも言語を伴うときにしか生じないと主張する研究者がいる一方で、石にも原子にも意識があると考える研究者もいるという。この分野で有名なデヴィッド・チャーマーズは「温度計やサーモスタットのような単純なシステムでさえ、意識らしきものを持つ可能性はある」という見解を示しているようだ(リタ・カーター『脳と意識の地形図』藤井留美訳)。
こうした議論では、「創発」という考え方がしばしば提示される。ある単純な要素が複雑なシステムに構築されていくなかで、もとの要素になかった性質が生成されるというもの。ニューロンのネットワークから意識が生じる過程を、創発の一例とみなすのも一般的だ。そこからすれば、人間の脳だけでなく、他の生物はもちろんのこと機械のシステムであっても、同様の過程として意識が生じてくる可能性を、否定できない。
ただ、もう一つ重要な点。人間はたとえば身体とか言語とか時間や空間といった形式を基盤にしてこの宇宙を認知している。猫やロボットに意識があったとしても、彼らが人間と違って宇宙をどのような形式で認知しているのかが想像できない以上、そのクオリアは結局想像できないということを忘れるべきではない。地球をガイアという一個の生命とみなす人がいる。彼らは地球にすら意識が宿っていると思うのかもしれない。しかし地球にとってのクオリアとは、猫やロボットにとってのクオリア以上に、人間には想像が難しいだろう。
リンゴの赤が、バイオリンの音が、お湯の熱さが、私にはまさにこんな感じなのだが、猫には、ロボットには、ああいったいどんな感じなんだろう。でもそれを考えるのは不可能もしくは無意味というべきなのか。一番知りたいのはまさにそこなのに。最も肝心なところが決して知りえないという図式にこそ、先に挙げた〈B〉の問い「クオリアや意識は、そもそも何なのか」の核心があるのかも……。
(8)付記上記の文章では、クオリアを「五感に伴う質感」という意味にほぼ限定している。しかし、クオリアには「感覚的クオリア」だけでなく「志向的クオリア」というものがある。「志向的クオリア」とは一言でいうと《感覚入力がなくなっても想起することのできるクオリア》(『脳内現象』)。たとえば「今ごろ青森じゃリンゴがたくさん実っているんだろうなあ」と思うときのクオリアだ。現実に存在しない「鬼」とか「黄色い音」といったものを空想するときに意識に立ち上がってくるものなども、これに含まれる。
そして実は、志向的クオリアは言語と結びつくかたちで生じ、働くものと思われる。ここのところが、人間の意識や認知を考える際に決定的に重要な部分だろう。ただ今回は番組も含めて、クオリアと言語の関連は複雑さを避けるためにすべて割愛した。これに関しては改めて考えてみたい。
また茂木さんは『脳内現象』で、感覚的クオリアや志向的クオリアを合わせた意識全体を一挙に見渡す〈私〉という座に特に注目している。アリゾナで開催されている注目の国際会議「意識の科学に向けて」でも、茂木さんは今年、その〈私〉が構成される独自の理論を発表したという。しかしこの件も今回は触れられなかった。
https://bandura.sbs.arizona.edu/login/consciousness/report_web_detail.aspx?abs=579*以上、茂木さんの話と著書も大いに転用・参照していますが、すべて私自身の理解・見解であることをお断りしておきます。
*茂木さんにインタビューさせていただいた番組は、以下のとおり放送されます。
●放送局:東京MXテレビ(関東エリア UHF14ch)
●番組名:ガリレオチャンネル
●タイトル:クオリアから意識の謎へ 茂木健一郎の冒険思考
●放送日時:2004年12月12日(日)朝8:00〜8:30 (再放送19日)
http://www.web-wac.co.jp/tv/
(9)参考(おまけ)「意識とは、そもそも何なのか」という問答に関しては、上にも挙げた『脳と意識の地形図』(リタ・カーター著、藤井留美訳)の第二章「やっかいな問題」が、興味深い考察をしている。一元論と二元論もさらに細かく分類して検討している。意識の議論で有名なダニエル・デネット、ポール・チャーチランド、デヴィッド・チャーマーズ、ジョン・サールといった人物の考えも対比してまとめてある。(*ちなみにこの本は『脳と心の地形図』の続編)
著者リタ・カーターによれば、4人の立場はそれぞれ次の通りだ。
デネット:精神現象や経験などそもそも存在しないと考える
チャーチランド:精神現象は物理世界と同じひとつのものと考える
サール:意識は脳に随伴するが創発的なマクロ状態だと考える
チャーマース:世界の本質は感覚であり意識は宇宙が持つ一貫した特性だと考えるさらに関連部分を引用しておく。
ダニエル・デネットについて
《たとえば特定の光がインプットされると、「赤い」という判断が起こって、「赤信号だ!」と言ったり、自動車のブレーキを踏んだりする方向へ導く。この傾向づけのほかには何もなく、内側に潜んで表現しきれない「赤」の経験など存在しない。私たちが赤の経験だと思っているのは、赤を経験するという信念が働いたに過ぎない。その証拠に、感覚インプットによって生じる傾向に経験が加わったとしても、行動自体はまったく変わらないとデネットは主張する。クオリアは余剰物であって必要不可欠なものではなく、そうだとすればクオリアが存在するという証拠もない。》(本文より)ポール・チャーチランドについて
《同一理論を唱えるポール・チャーチランドは、そのことを簡潔に説明している。「人類とそのすべての特徴は、純粋な物理的プロセスから生じた、まぎれもなく物理的な結果である……我々が傑出しているのは、ほかの生き物より複雑で効果的な神経系を持っている点だけであり……我々も物質の所産なのであり、その事実を受け入れるべきだろう」》(本文より)ジョン・サール
《脳のメカニズムと意識は、ある種の因果関係にある。脳で起こるプロセスが原因となって、意識的な経験が生じるのである。ここからはいかなる二元論も導きだせない。因果関係はボトムアップの形をとり、結果として生じる効果は単独の物質ではなく、脳それ自体の高レベルの特徴だからだ。意識は、脳からほとばしる液体のようなものではない。意識的な状態とは、脳がそうなっている状態だ。水は液体や固体になるが、流動性や固形性といった特別な物質があるわけではない。それと同じで、意識は脳が置かれている状態であって、意識という物質があるわけではない。》
《意識はそれ以上単純化できない。だがそれは謎だからとか神聖だからではなく、主観的な一人称の存在モードであるため、三人称の現象に置きかえることができないからだ。科学と哲学の両方で、人々が昔から犯してきた誤りがある。それは、二元論を否定する以上は――私は否定するべきだと思うが――物質主義を採用しなければならないという思いこみだ。》 (本人著のコラムより)デヴィッド・チャーマーズ
《科学のほとんどの分野では、機能を説明すればそれで事足りる。たとえば生命を説明するには、適応や生殖などの働きがわかればよい。かつて生気論者は、適応や生殖を物理的なメカニズムが受け持っていることに疑問を呈していたが、ちょうどぴったりのメカニズムが見つかったことで、そうした疑問も消えていった。しかし意識の問題が厄介なのはまったく別次元の話で、客観的な機能を超えて、主観に舞台が移るからだ。メカニズムという標準的な枠組みで説明することではない。》
《精神物理的な根本原理の候補としてひとつ考えられるのは、情報(あるいは少なくともその一部)には物理的と現象的の二つの側面があるということだ。経験を呼びおこすのは、情報のいっぽうの側面としての状態であり、もういっぽうの側面は物理的な処理のなかに見いだすことができる。物理的な現象は外からの情報であり、意識は内側からの情報と言ってもよいだろう。》 (本人著のコラムより)