養老孟司『人間科学』(筑摩書房・2002年)
人間の見方そして科学の見方を、
大きな尺度で見通すとともに、大きく転換させてもくれそうな一冊。養老は、人間を「物質」と「情報」の絡み合いとして眺める。
それは、
人間=<細胞(物質)+遺伝子(情報)>+<脳(物質)+言語(情報)>
という二層を成している。
この見取り図によって、
いくら悩んでもキリがなかった「人間というふしぎな機構」が、
実にきれいに整理・説明できるのだ。見取り図のポイントは、まず、
脳や遺伝子の探求が、なぜ現代科学のパラダイムを決定付けそうかというと、
それは、「情報」という新しい対象を取り扱っていることにある、
と見通したところだ。
物理学が表舞台にあった20世紀半ばまでの自然科学が
「物質(およびエネルギー)」だけを扱うことで進歩してきたのと
極めて対照的だという。もうひとつのポイントは、
ここでいう「情報」が一定不変のものであるとしていることだ。
遺伝子という固定して変わらない情報記号が、
常に変化する細胞という物質システムによって担われている。
同様に、
言語(を含めた表象)という固定して変わらない情報記号が、
常に変化する脳という物質システムによって担われている。
かくして人間が生成されるというわけだ。私にとってなにより画期的だったのは、
「細胞と遺伝子の関係」と「脳と言語の関係」とが並列されたことだ。
難題すぎてどうせ遠巻きにするしかないと諦めてしまいそうな各関係が、
両者を結びつけてみることで、
実感する糸口が、なんと同時に見つかりそうというわけ。
《DNAの分子構造の決定と、それに引き続く遺伝情報の翻訳機構の解明は、
DNAが「物質」であると同時に「情報としてはたらく」という奇妙な現象が
どういうことであるか、解明してしまったのである》。
《これは、脳という物質のかたまりから、なぜ心という不思議なものが発生するか、
という問いに答えたといってもいい》。
なんだか明快すぎて、驚くよりも、あっけにとられる。ここからは、必然的なのかもしれないが、
心/体という二元論も、
「細胞+遺伝子」/「脳+言語」という構造に重ねられる。
いつもぼやけてしまうこの二元論に、新しい目鼻が付いてくる。
《情報という視点の導入によって、
心身問題はさらに具体的に限定されたと表現してもいい。
絶えず変化する「生きている」システムのなかで、
どのようにして「固定した」情報が産出されるのか、
その物質的機構とはなにか。問題はそこに尽きると思われる》。また、
「変わらない情報」と「変化する物質」という関係は、
認識における「同一性と差異」の関係、記号論のシニフィエとシニフィアンの関係、
などに通じていく。
《リンゴという一つの単語が、
外界の事象としてのリンゴと、脳のなかのイメージあるいは脳内活動としてのリンゴ、
その二面を持つ》
といった展開だ。さらに、
「ニューラル・ネット」や「クオリア」といったトピックにも言及がある。
これは、物質+情報の見取り図と厳密に関連しているともいえないが、
さきほど「現代の自然科学のパラダイム」と書いたなかでも、
とりわけ先端的なトピックであると思うので、
これに対する養老の見解が読めるのは貴重だ。さてさて、ちょっとガチガチの紹介をしてしまったか。
改めて言う。
この本は「情報系という見方」の斬新さにつきる。
そして、それによって、
脳の探求および遺伝子の探求とは
つまりいったい何を探求しているのかという問題を、
トータルに把握させる面白さにつきる。実は、この見方はすでに
『脳+心+遺伝子VS.サムシンググレート』という対談本で触れられていた。
「むむこれぞ核心的!」と感じたものだ。(それについて)
養老先生、やはりこの路線で、いよいよ頂上に迫りつつあるのか?
(あるいは山麓から登り始めつつあるのか?)
そうした総論または原論が、きっとここにある。
かといって、養老先生の思考は、
脳には力を入れつつも、肩にはけっして力が入らず、
相変わらずの自在さと際限のなさで進んでいくようであった。《私は自分の主張を、いわゆる「正しい」という意味で述べているつもりはない。
私の主張はあくまでも「見方」であって、
そうした見方を採用することによって、
どういう視点が開けるかを示そうとしているだけである。
別な言い方をするなら、
プラグマティックな思考と考えていただいて差し支えない。
(略)
そうした見方をとるほうが、
話がわかりやすい、極端にならない、現状の整理ができる、
等々というだけのことである》。