「ゴーストバスターズ」(高橋源一郎)

ゴーストバスターズにとって正義とは何か。

冒頭の「アメリカはまだ若く、そこに住む人々は....」というところを「小説は、文学はまだ若く、それを書きそれを読む人々は....」と変えてみたら、なにかに手がかりになるだろうか。

ゴーストって何ですか?この質問はあいまいだろうか。じゃこういう問いならどうだ。作者の高橋源一郎にとってゴーストとは何なのか。いやこれでもあいまいだ。さらに言い換えよう。作者の高橋源一郎は、この小説が出版された後、たとえばインタビューや文芸誌に自ら書く文章の中で「ゴーストとは何か」といった類の質問に簡潔に答えねばならないような場面に遭遇した時は「こう答えよう」と準備しつつこの小説を構想し書きつづっていったのだとしたら、もしそうだとしたら、それはだいたいどういうものだったのか。でもこんな躊躇も容赦もしないぞという態度では「小説のすべてがその答えです」とかわされるだろうか。

ともあれ、純粋素朴にこの小説を読めば「ゴーストとは何のことだろう」と首をひねることになるのはしかたないことだ。徹底してゴーストに関する話なのに、その説明はどこまで読み進んでも抽象的で部分的で、それでいて、とても重大な存在であることをにおわせる。ブッチとサンダンスの旅も、芭蕉の旅も、ドンキホーテの姪の旅も、少年の旅も、高橋源一郎のこの小説全体も、すべてゴーストを巡っているのに。----ゴーストを巡る冒険、これはゴーストについての小説である----こんな風に書くと村上春樹だが。しかたない。「ゴーストバスターズ」を読んでいくあるいは読み終えて考えている僕にとって「ゴースト」とは何であるのかを、考えるのはやめて、もう決めることにしよう。

さっき若いアメリカをまだ無垢だったころの文学にたとえた。それに倣って、ゴーストは過去に現れた文学の「歴史・制度・呪縛」といったようなものだと考えると、なんか少し、この小説が面白く読めそうな気がする。その、制度となって呪縛する文学の歴史からどう逃れて小説を書いていったらいいのか、という模索を批評ではなくまさに小説の形でつづったのが、この「ゴーストバスターズ」なのではないか。

言い換える。世界ではこれまでにたくさんの小説が書かれ、しかもそれを読んでしまったら、そのあとどんな小説を書いたって、それまでの小説の影響を受けて似たようなことを書いてしまうだろうし、似たようなことを読んでしまうだろう。ましてや舞台は現代なのだ。小説の舞台ではなく高橋源一郎が小説を書き僕らがそれを読んでいる舞台がだ。その舞台にはコカコーラもケンタッキーもマツモトキヨシもペンギン村も「ペンギン村に陽は落ちて」も存在するのだ。荒野とエッタだけが存在する古き良きアメリカ西部ではないのだ。それに気づかず脳天気に大昔と同じような小説をいまだに書いているのは馬鹿だから、それに気づいていてもなお書きがいのある、または読みがいのある小説とはなにか、その問いと答えを書いたのが、小説「ゴーストバスターズ」だ。

小説に限ったことではない。言論全般あるいは言葉そのものについても当てはまる。今まで世の中でそりゃもういろんなことが書かれ言われた。僕らが現在何か述べようとすると、これまでにたくさんの人々がすでに述べて積み上げてきたところの問題の立て方とか言葉の使い方などの呪縛から離れられず、どうしても同じ成り立ちの言論、似たような言い回しの言葉をはいてしまう。たとえば神戸で小学生殺害の容疑で少年が捕まると「キョウイクのコウハイ」とか「カソウゲンジツとゲンジツのコンドウ」とか言われるし、マスコミは容疑者の顔を隠し写真雑誌はそれを暴き、それについて「人権はどうなった」と誰かが言うし「人権なんてどうでもいい」と誰かが言う。どれもこれも何か似たものをなぞっている、ように僕には見える。「ゴーストバスターズ」を読んでいてそういうことを思った。そういう言論、さらにはそういう言葉の歴史的制度的呪縛をどう乗り越えるか。たぶん高橋源一郎はこの小説も含めてずっとそれを考えているのではないか。

今書いていることはもちろん、僕が高橋源一郎のこれまでの小説やエッセイや、あるいはたとえばハスミシゲヒコの「小説から遠く離れて」なんかを読んだから、こういう言い方になったのだろうと思うケド。ゴーストに負けない唯一の存在が今どきの女子高校生だったが、それはたぶん、女子高校生がハスミシゲヒコ先生なんて聞いたことないし「ドンキホーテ」なんて読んでないし(僕も読んでないけど)「明日に向かって撃て」のビデオすら借りてないからではないか。歴史を知らないとその制度に呪縛されるなんてこともないのだろうから。

さて、だいたいこんな風に書き始めれば「ゴーストバスターズ」の懐深く入り込めるだろうか。どうだろうか。芭蕉がとにかくカッコよく出てくるが、どうしてそれを読んでいてカッコよく感じるのか、エンディングでこの「ゴーストバスターズ」もまた文学の歴史の流れに入り込んでいったと解釈出来るようなくだりがあるが、それはさらにどう解釈したらよいのか。正義の味方はまさに高橋源一郎であるのか、等々、気になる本当の謎はまだこれから解明しなければならないが、きょうはここまで。

*補足
「ゴーストバスターズ」は高橋源一郎の新刊小説です。僕はきょう(1997年7月15日)読み終えたところです。


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Junky
1997.7.15

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