脳の
仮説立証
主義



仮説立証主義とは、脳の働きの特徴について松本元という農家学者ではなくて脳科学者が述べた言葉である。

みなさんはたくさんことを知っていますね。たとえば「リンゴは赤い」とか「めちゃいけ」とか「傲岸な官僚が主導する日本」とか「火星探査機マースパスファインダー」とか「実存は本質に先立つものは金だ」とか。こういう知識というのは全部みなさんの脳味噌の中に入っているんです。
そして、みなさんは知っているだけじゃなく毎日なにか考えますね。この「考える」ということは、言い換えれば「脳が働いている」ということです。心臓が考えたり脇の下が考えたりはしません。じゃ脳が働いているというのは何かというと、脳味噌を作っているたくさんの細胞(ニューロンという)が、お互いにピピッと刺激し合っているということなんですよ。これは隣どうしの細胞だけが刺激しあうのではなくて、もう、あっちもこっちも配線(シナプスという)でつながっていて、好き勝手に信号を送れるんです。しかも、どんどん配線は増やしていけるんです。
だから、「火星探査機マースパスファインダー」を知っていて、「めちゃめちゃいけてる」を知っているあなたが、ある日ふと「火星探査機マースパスファインダーはめちゃめちゃいけてる!」と考えたとしましょう。その時は「火星探査機マースパスファインダー」という知識を蓄えているニューロンたちと、「は」という知識を蓄えているニューロンたちと、「めちゃめちゃいけてる」という知識を蓄えているニューロンたちと、「!」という知識を蓄えているニューロンたちが、初めて配線で結ばれたことを意味するのです。

こういう、とっくの昔に聞いたぜ!という文章を読むのはたやすい。「...という知識を蓄えている...」の繰り返し部分なんか飛ばしたって全然平気である。つまりあなたの脳にとってこの文章の入力は、すでに存在していたニューロンネットワークを丁寧になぞっただけで、新たな出力はまったく起こらなかった、ということなのかもしれない。

さて。

話は戻って、松本先生は「入力情報とは出力を取り出すための検索情報である」「学習効果とは神経細胞ネットワークを変えるということである」「ポイントは、こんなかんじだろうか、と思って(出力して)聞くことである」「出力を出さないと脳回路は進まない」「脳が成長するとは出力するということである」「「脳は粗っぽい答をセットして処理すべき方向をつくる」というようなことを述べる。(あるシンポジウムでの発言を僕が記録したものなので細かいところはちょっとあやしい。そのつもりで)

仮説立証主義とは、この「粗っぽい答をセットして処理すべき方向をつくる」に関連して松本先生が述べた言葉だ。

この言葉を聞いて僕は大いに感動してしまい「うーん、なるほど、それはこういうことかな」と思った。つまり、よくはわからないがなんとなくきになるへんてこなものをみたりよんだり、そういうたぐいのことをかいたりしゃべったり、という、そういうほうこうで「ものをかんがえる」のは、じつはとてもたいせつなことなんだな、いやそれどころか、「ものをかんがえる」ということにあたいするのは、まさにそれだ!ということでありました。(脳は初めての出力の時はとりあえず平仮名になってしまう、という仮説は立証されていない)

哲学ということについても、たしかに、先人がどう言ったのかを知って入力することは大事だろう。ある人が何年間も何年間もひとりで首をひねっていた問題が死ぬ直前になってやっと「そうか、こうだ!」とわかったとしても、それは実はソクラテスが大昔にちゃんと答えていた、ということになれば、これはちょっと人生もったいないからである。
しかしである。そういう風に、ソクラテスはこう言った、デカルトはこう言った、ヘーゲルはこう言った、朝日新聞はこういった、ということを知識として蓄え、さらにその後も繰り返し、ソクラテスはこう言った、デカルトはこう言った、ヘーゲルはこう言った、朝日新聞はこう言った、さらにその後も繰り返し、ソクラテスはこう言った、デカルトはこう言った、ヘーゲルはこう言った、朝日新聞はこう言った、さらにその後も繰り返し、ソクラテスはこう言った、デカルトはこう言った、ヘーゲルはこう言った、朝日新聞はこう言った、と同じ入力ばかり上塗りしていても、それは考えるということ、つまり、こうなんではないかという仮説つまり新しい出力をセットして新しいニューロンネットワークを作り出していくという行為とは、ほど遠いものになってしまうのだ。

だからきょうの結論はこうである。


たとえば柄谷行人はめちゃめちゃいけてるというよりはめちゃめちゃめちゃめちゃと言っていいが、それだからこそニューロンも大冒険できるのだ、喜んで旅立ちなさい、図書館に。


柄谷行人がどう考えたかを知ったなら、知ったのと同じ分量くらいは出力してみることにしよう。


たとえば高橋源一郎を読む場合は、文学を担当するニューロンネットワーク、文章を担当するニューロンネットワーク、思想を担当するニューロンネットワークがそろって「おいちょっと待て、それなんだよ、うちの担当じゃないだろ」と相手にしてくれない可能性が強いので、「馬鹿野郎!お前らの仕事はなあ、道を管理することじゃなくて、道を作ることなんだよ、わかったか!」と尻をたたき、とにかく仮設道路をこしらえてみよう。だいたい、読む方にくらべたら、あんなのを書く方のニューロンネットワークは、もっともっと激しく働いているに違いないのだ。


このホームページで「冒険・哲学の大陸」なんてのを書いてきたわけだけど、なんだか変わり映えしなくなってきたし、この際こういう方針で新しく仕切り直すことにする。乞う、ご期待。

*ところで、松本先生の話はまだまだあって、「マニュアル型のコンピュータは中にある答を取り出すだけだが、人間の脳は出力しながら答を作り出すコンピュータである」。これはさらに発展して、脳にとって「情」こそがマスターであり「知」はスレーブに過ぎない、と言う。だから「どんなに情報を与えてもそれが情に訴えないものであれば脳には活性を与えず、したがってそれは無意味な情報である」。そして「もし人間がロボットと情を通じたら人間がロボット化する。つまり人間がコンピュータに似てしまう」という危惧を結論的に表明した。

写真は。ホンダが開発した二足歩行ロボット「P-2」の顔。「ロボットと未来社会」(日本機械学会主催)というシンポジウムで展示された。松本元氏の発言もそこでのもの。


Junky
1997.8.19

哲学の大陸、とか?
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