『からくり民主主義』(高橋秀実・草思社)
沖縄に基地はいらない。福井県に原発はいらない。諌早湾に堤防はいらない。私はだいたいそういう主張で来た。というか、今もそうだ。
こうした明快な主張は、みんなから愛され、すくすく育ち、どんどん大きくなる。「いやあこの子ったら勉強なんてちっともしなかったのに、学校も就職もぜんぶ希望どおりなんですのよ、おほほ」。この先、私の老後まで面倒みてくれそうな勢いだ。でも実をいうと、この主張、私の養子なのです。
そんな私を、ある晩、誰かが訪ねてきた。
――こんばんは
はて、いまじぶん、誰だろう。
――お母さん、僕です。
・・・え?
――昔、お母さんが捨てた子供です。
なんだって?
――もうこんなに大きくなりました。
帰ってくれ! へんな言いがかりはよしてくれ。
――まさか、お忘れではありますまい。ドアを開けると、暗くヒネた青年が立っている。
忘れたかって? ああできるならそうしたかった。しかし、忘れたことなど本当は一度もなかったのだ。おまえの顔を見た今、そのことを思い知ったよ。そうだ。おまえはたしかにわたしの子供だ。不憫だ。でもほんとうに愛しい。
――どうして僕を捨てたのですか。
堪忍しておくれ。私の思考力では、とうていお前を育てていくことなどできないと、あの日思ったのだよ。おまけに、おまえの姿のあまりの醜くさに・・・・そうして月日は流れ、捨て子として置き去りにされたはずの思考が、知らないどこかで大人に育ち、私のもとへ帰ってきたのだ。
高橋秀実の『からくり民主主義』を読んで、私はそのような感じを持った。
たとえば戦争はやめたほうがいいし、環境は破壊しないほうがいい。しかし、そう結論する背景、主張する背景の一つには、結論や主張をはっきりさせないと、戦争のこと、環境のことが、わかった気になれないからというのがある。そういう根本のところがわかった気になれないなら、社会的な行動や発言はどれも不可能となり、いつまでも、もじもじぐずぐずすることになってしまう。かつて私は、結論や主張を建てられない頼りなさを持ちこたえることができず、そうしたぐずぐずする部分をこっそり切り捨ててしまっていたかもしれない。
思考や思想は、健康優良児ばかりではない。そもそも正常に産出されるとも限らない。病気がちの思考、奇形の思考が宿ってしまうこと、育ってしまうこともある。それでも子供は大人になる。捨てられても、勝手に生き延びる。
高橋秀実はノンフィクション作家。『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』をだいぶ前に読んだ。どちらも印象の強い、アクの強い本だった。全部おすすめ。