キイワード

金沢創さんの話(未完)

●5月11日(土)
●「心の科学の基礎論」研究会・例会
●東京電気大学神田キャンパス

こんな情報にどうして目がとまりしかも出向くまでしたかというと、この日の報告者というのが、『他者の心は存在するか』(金子書房)の金沢創さんであり、さらにもう一人が『ロボットの心』(講談社現代新書)の柴田正良さんであったせいだ。

講演会みたいなものだろうと気楽に出かけていったところ、会場は広くもない教室で、せいぜい20人ほどのいかにも研究者という人ばかりが内輪的に和んでいる。一歩入ったとたん「ああ完全に場違いな所に入り込んだ」と気づく。

しかし、本を買うということがCDを買うことに等しいとすれば、このようなイベントへの参加は、いわば「じゃあ今度はライブに行ってみるか」なのであり、勉強というジャンルにおいても自然な消費行動だろう。ただライブハウスと違っているのは、演じる方がミュージシャンなら、聴く方もみなミュージシャンだったという点だ。はっきり観客とわかるのは、私ともう一人くらいしかいなかった。まあ利根川進とか養老孟司のビッグネームならいざ知らず、ホーキングなどの外タレスーパースターでもないし、歌謡曲の吉村作治とか小田晋でもないのだから、しょうがないか。金沢創、柴田正良はブレイク寸前ながら今はまだカルトな存在なのだ。

さて、金沢さんは「瞑想の進化論:多重フレームの生物学」と題して話した。・・・・・・などと報告しても、視聴できないCDのタイトルみたいなもので、まったく中身は想像できない。しかたない、少し言葉で説明するか。いやしかし、あるCDについてそれをまったく聴いていないしそもそもアーティスト自身を知らないという人に、その魅力を思い入れたっぷり文章で説明する音楽評論とはいったい何なのだ、といったむなしさもつきまとう。ではどうする。やっぱりサビの部分をそのまま流すか。いや、そこは音楽とはジャンルが違うのであって、それが最適な伝え方とも思えない・・・・・・

ともあれ。

周囲になんらかの状況が生じると、人間も猿も蝿も外務官僚も、その状況を一連の枠組みにしたがって認識し、その状況に一連の枠組みにしたがって対処する。金沢さんが「フレーム」と呼ぶのは、そうした認識と行動のパターンのことであるらしい。そのフレームは「おおまかなものから細かいものまであり、階層構造をなしている」と言う。

その例として、レジュメには「りんご」を例に「物理フレーム(ニュートン、重力、月、地球、アイディア ・・)」「食べ物フレーム(しゃりしゃり 冬 皮をむく ・・)」「研究フレーム 強化子 5ミリ角 包丁 サル)」と記されている。――やっぱりメロディー1フレーズの視聴だけでは、いかんともしがたいみたいだが、先に進む。

フレームが常にワンパターンで済めば、つまり「同じ出来事→同じ認識・同じ行動」ですべて事が運べば楽なのだが、そうは問屋が卸さない。検察も許さない。認識と行動のフレームはしばしば矛盾にさらされる。ごく簡単な例として金沢さんは、ある物が目の前に現れたという出来事に対して、「近づけ」というフレームと「逃げろ」というフレームの両方が同時に生じるような場面をあげる。鈴木宗男がくれるという金についても「もらえ、得だ」と「もらうな、損だ」の両フレームが存在するのも同じことだろう。

――ついつい下手くそな時事漫談になってしまう。どうやらこれは、私の文章進行がしばしば絡めとられてしまうフレームであるらしい。

で、われわれの認識と行動のフレームは、そうした矛盾にさらされることによって、たえず整理統合つまりは組み替えが行われていると考えられる。

そういうわけで、今説明した(つもりの)「フレームの組み替え」ということを巡って、金沢さんは実に興味深い考察を開陳していくのだった。

たとえば

●「社会」を構成しているような哺乳類では、とっくみあったり噛みついたり闘争しているように見えて、実際は互いに傷つけることなく遊んでいる、といった行動が見られる。これは「攻撃フレーム」と「親密フレーム」が互いに矛盾しながら同時進行している場面なのではないのか?
●これこそが、遊びの基本構造である。
●例:ジェットコースター:落ちそうで落ちない 死にそうで死なない
●哺乳類の社会的「遊び」は、いわば社会関係においてもっとも深刻な同種他個体との競合共存関係を適切に処理するための練習、訓練の場ではないのか。

ちょっと脱線するが、この「遊び」が進化したものが人間の笑い(laghter)だという説がある一方で、もっと面白いことに、人間の笑いにはlaghter以外にもう一つあって、それはsmileとしての「笑い」であるが、このsmileのほうは、金沢さんによれば《劣位の表出が、社会場面で用いられるように進化したのではないか.「すいません」と同じ》というのだ。いやあまったくそのとおりじゃないか!。・・・いや、なんとなくそう思います、すいません(笑)。

もうひとつ脱線(か、ことによると脱線でなく正規ルートなのか計りかねるが)。金沢さんは、ミンスキーという有名な学者の、笑いに関する見解に続けて、別の見解を引用する。レジュメにはこうあった。

●3つの笑い 日常:別のフレーム 反日常:禁止されたフレーム 非日常:創造されたフレーム(竹熊) →笑いは、あるフレームに位置づけられていたイベントが、抑制されている別のフレームにより(突然、無意識的に)位置づけられることで生じる。

金沢さんが、この説明をしたところ、比較的年配の心理学者が疑念を持ち、さらに「竹熊とはどういう方ですか」と質問があったのだが、この竹熊とは、竹熊健太郎のことなのだった。――いや、ただそれだけのことですが、私は面白いと思ったのです、すいません(藁)。

いずれにしても、実をいうと、ここまでは、猿だの哺乳類だの、私にとってはまったく「ああそうですか」という印象にすぎない。

いちばん重大なことは、現生人類であり、現代人である我々にとって、フレームの組み替えとは、いったいどのような体験であるのかという点だ。

こないだまで俺って小泉自民党「支持します」だったのが急に「支持しません」に変わったけど・・・・・。これだってまあフレームの組み替えと言っていいのかもしれないが、そういうレベルのことではなくて、もっと根本的な世界像、世界観、いやそういうレベルですらない、なんというかもっと肉体的な直接性すら伴わんばかりの、世界の見え方そのものにかかわるような組み替え体験というものが、そもそも可能なのかどうか、そしてもしそれが可能だとしたら、それはいったいどういう体験なのか。

で、金沢さんが例をあげていくのは、瞑想体験であり、サイケデリックの意識状態だったりする。「サイケデリックは、基本的にフレームの麻痺剤 知覚、認知、感情、あらゆるレベルに作用する」。

――いや、こんな例を出しているからといって、昔流行った「ニューサイエンス」っぽい理解(それこそそういうフレーム)に収めててはいけない。全然違う話だと思う。それに私は、瞑想やドラッグや、レイブやイタコや臨死体験が、重大だとも神秘だとも思わないし。

だから、本当におもしろかったことを、いよいよ書いていく。

「知覚フレームのレベルの麻痺」ということで「同じ字を100回書いてきたあとの世界」なんてことが記されている。こういうのが、私にとっては、面白さのツボだ。そしてそれは、少なくとも私にとって、金沢さんの話の核心にいたる面白さであるという感触もある。

さらに話は進む。

●「多重フレームの矛盾は、複雑に環境を分類し柔軟な学習を行おうとする生物一般がかかえる共通の問題」
●感情は、この多重フレームの解決という側面もある。とりわけ、「怒り」は「どちらかのフレームを消し去るか一方へ強引に統合しようとする働き」だが、「悲しみ」は「矛盾する二つのフレームの統合をストップしそのまま放置しようとする働き」だという。

へえ〜!と思いませんか。そしてきわめつけ。

●「笑い」という感情は「矛盾する二つのフレームを矛盾したままいったりきたりする、より大きなフレームを作る働き」なのだというのである!!!。
●まとめていえば、笑いはフレームの組み替え 疲弊しパターン化し習慣になったものを、壊し、組み替え、新しくする力がある。
●一方で、悲しみというのは、矛盾するフレームを受け入れる働き

だから、悲しみとは、情緒としては「快」の部類であって、「不快」ではないということにもなる。

金沢さんの話を振り返りながら、ここまで書いてきて、結局なんだか心理学の勉強をしただけみたいで、ふとつまらない気もしてきた。いやまあ、実際これは心理学的な研究なので、それはしょうがないのだが、金沢さんの話は、もっとそれにとどまらない、われわれの認知体系のものすごい可能性や、ものすごい理解を思わせるのであり、それを伝えないと、駄目だ。

じゃあ、もっと、そのようなエッセンスが伝わるように・・・

問いや仮説としてではあるが、以下のような話を紹介したほうがいいか。

●なぜ爬虫類は「石のように動かないことがあるのか」。それはどのような意識状態なのか。 ●ある仮説:温血動物だけがレム睡眠(夢を見ているときの睡眠)を獲得したが、このレム睡眠というのは、いわばオフライン処理だという。―オフラインというのは脳が外界と直結されないままで、いろいろ動いているという意味だろう―。

ここから話は一気に盛り上がってくるのだが、きょうはもうこのへんで。未整理のまま。

(続く)


Junky
2002.5.24

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