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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.3.30 -- とはいえ --

●鳥越俊太郎の『ザ・スクープ』は、良質な番組だと思った。あと、大杉重男のこれも、そうとう良質な言論なのではないか。リンクしたのでもう私も良質。


2002.3.29 -- 本カツ定食 --

●「なるほどう〜む」→辻元事件の真相 投稿者:武田信弘  投稿日: 3月26日(火)20時24分02秒●しかしこの掲示板、仕切りのバーがいちいち同じフレーズを繰り返すというのは、どうだろう。

●東儀秀樹+神聖ローマのプラハ+火星フロンガス青空再生計画――そんなテレビ番組(ダイジェスト?)を見た。あの笛(ひちりき)、けっこう誰でも弾けるのではないかという疑惑。●野見祐二という人も知る。


2002.3.24 -- 冷静と情熱のあいだ --

「八方美人な書評ページ」というサイトがある。「読んだ本は意地でも褒める」。リクエストも受け付ける。こうなったら、辻元清美もここにお願いしてどうにかしてもらえないものか。たとえば、こんな感じ? もはや鈴木宗男以上に、持ち上げる根拠と勇気が見いだしにくい一冊。いまこそ奮起を。


2002.3.22 -- 見張りの都市 --

●金曜の晩に渋谷センター街なんかを脱けて歩いたので、春雨にもかかわらず糞詰りのごとくごった返す人群れに、毎度のことながらうんざり。ところが、道の真ん中を誇張でなく胸を張りつつやってきた赤いベレーの集団にまで出くわし、よけいうんざり。新宿には監視カメラ、渋谷にはこの方々。●かつての偽造テレカ売りとおぼしき中東系の面々と揉めそうになっていた。


2002.3.18 -- 人格は存在しない。行為だけが存在する。 --

●読売新聞によれば「ネットだと5人に1人は別人格」だとか。とりわけ「陽気になる」「大胆になる」ことが多いらしい。どうだろうか。私はたとえば自分用に記録を書く場合に比べて、この日誌のほうがむしろ陰気だったり小心だったりすることもあるのではないか。●あるいは、そもそも、こうした日誌であれ、誰かとの会話であれ、ゼミであれ飲み会であれ、自分から相手にあれこれ何かを言うという行為は、一人黙って過ごす生活に比べたら、それ自体どこか陽気に見えるし、いくらか大胆でなければやっていけない。●それにしても、このように新聞報道にいちゃもんを付けるという人格は、たとえば会社の営業報告日誌に比べれば、ウェブ日誌において極めてよく現われる、ということは言える。


2002.3.17 -- それをいうなら --

●ストーカーという愛の行為を、取材報道などという正義の行為・商売の行為と一緒にしてはいかんよ。


2002.3.15 -- あれまた休載かと思い気や --

小説トリッパー迷わず買う。900円。高橋源一郎の連載評論〈文学へ〉。ただちに読むべし。たとえ9000円でも買ったと思う。いや90000円だとしても立ち読みでは済まなかった(たぶん万引き)。●「言葉」をどう使っても「現在」は表せないのだけれど、「現在」を使ったらなんと「言葉」の定義ができた! という見方もできる。

●朝鮮国への拉致疑惑について、世間とやや異なる見解。その1その2その3


2002.3.13 -- 私もどういうつもりで、こんなことを言うのか --

村上春樹神の子どもたちはみな踊る』が文庫本になった。未読だったので、どういうつもりかはさておき、ともあれ買ってとっとと読んだ。●《そのとき順子は、焚火の火の炎を見ていて、そこに何かをふと感じることになった。何か深いものだった。気持ちのかたまりとでも言えばいいのだろうか、観念と呼ぶにはあまりにも生々しく、現実的な重みを持ったものだった。それは彼女の体のなかをゆっくりと駆け抜け、懐かしいような、胸をしめつけるような、不思議な感触だけを残してどこかに消えていった。それが消えてしばらくのあいだ、彼女の腕には鳥肌のようなものがたっていた。》(「アイロンのある風景」、原文の傍点は略)●たとえばこんな言い回しをされて、読者はどうしたらいい? でもいいのだ、そのとおり「何か深いもの」を感じる、と思えばいい。「わかるよ」。それが村上春樹と読者の長年の友情ではないか。その場合、小説に書かれた「何か深いもの」と、読者が思った「何か深いもの」が同質かどうか、それは誰も知らない。でもその「何か深いもの」が、その言い回しにおいて一致したのだから、それでいい。●村上春樹は、いったい、どういうつもりなのか。それは常に分からない。ただもう「ああこれは村上春樹だ」というムードだけがありありと漂う。どういうつもりで阪神大震災を題材にしたのか。どういうつもりで「かえるくん」というキャラクターを作ったのか。いや、村上春樹に、そのような「つもり」など存在しない。どのような「つもり」も存在しないのだ。●「どういうつもりでこれを書くのか」という意識をどれだけ消去してそれを書けるか、というところに小説の秘義を信じる人が村上春樹である――ありきたりで大雑把な言い回しかもしれないが、少なくともそういう言い回しは踏まえておきたい。●それはそうと。小説とは得体のしれない装置であって、それを作動させるのが批評家の役割だ――そんな趣旨のことを蓮實重彦がむかし述べていた。しかし村上春樹という装置は、なぜか批評などという行為によらずとも勝手にどんどん作動してしまう。そのせいで、本当はかなり得体のしれない小説であるにも関わらず、その得体のしれなさがあまり際立たないという損害をいつも被っている。


2002.3.10 -- 批評はプロレスにあり --

●『重力』などの批評系雑誌を「格闘技」に喩えたせいだろうか、ある人がこんなウェブ日記がありますと教えてくれた。こちら「批評空間興行」とタイトルが付いたページ。●面白くて唸ってしまった。書き手は哲学に詳しいようだが、プロレスにはそれを上回る熱狂ぶりで、ほかの日の日記をどんどん読んでいくと、プロレスや格闘技の試合を語るのに「ワーク」「シュート」という二つの対照的な批評理論が存在することや、観衆にも「マーク」「シュマーク」「スマート」という3つのカテゴリーが存在することを教えられた。●そのプロレスの流れで浅草キッドのサイトの存在を教えられ、「シュート活字」「博士の悪童日記」などを読んだら、浅草キッドの存在自体が改めて強く印象づけられた。●なお、プロレスといえばちょうど『現代思想』の増刊が出ている(参考)が、本屋でぱらぱらと見たところ、松浦理英子が執筆とインタビューで参加していて、私としては、松浦理英子の存在そして女子プロレスの話がある章に絡んでいた『裏ヴァージョン』の存在にまた思い至った。●プロレスを文芸評論の喩えに借り出すなど本末転倒だったかもしれない。プロレスを論じる行為は、それ自体極めて批評的なのだ。これまでの不明を恥じる。いや『現代思想』が取り上げたからそう思ったのではないですよ、上述の日記と浅草キッズのサイトを読んでそう思ったのですよ、念のため。


2002.3.8 -- ビーフンでも食べながら読もう --

●「まとりた」というオピニオン雑誌は知っているだろうか。同誌『愛国心のサジ加減』という号をだいぶ前に買ったことがあり、執筆者も内容もなんか妙なスタンスだと感じていた。ところが先日ロフトプラスワンで森達也(『A』の監督)が鈴木邦男とビーフンを食べながら言論の不自由について話すというので見にいったところ、それの主催が「まとりた」だったから、へえと思った。●編集長が司会をしていて、次号は『天皇新論』というタイトルです。その中でこちらの鈴木邦男さんが若松孝二さんと殴り合い・・・ではなく対談をしていますと言う。ははあそれもなんだか面白そうだと楽しみにしていた。●その『天皇新論』が2月末に出た。ふつう天皇に関する論争なんてものに接すると、なんだか胸が塞がって口も重たくなってしまい、その結果言いたかったことも「もういいや」となってしまうことが多いものだが、こちらは逆で、口がずいぶん軽く(軽々しく)なってしまった。今もややそうだったが、感想文がまたおかげでこんなに長くなってしまった。ああ疲れまとりた。●「まとりた」のサイトはこちら


2002.3.7 -- 支持率 --

小泉内閣メルマガ。ちゃんと開くという人の割合は、とうとう40%を切りました。


2002.3.2 -- 第二種接近遭遇 --

元ちとせライブ(新宿バージンメガストア)に足を運んできた。予想どおりの混雑。CD売場の後方で思いきり爪先立ちしてやっと、遠く頭と頭の谷間にアーティストの顔だけが辛うじて浮かんでいる程度。気を抜くと沈んでしまう。なんというか海水浴で溺れてワダツミの木になっていく心境だった。ヒトは頭が体のてっぺんに付いているからよいものの、たとえば我々がイカであったなら、きょうのライブは一体どうなったことやら。帰りにまたCDを買う。『コトノハ』。


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