写真・風景・距離 「写真の現在ー距離の不在」を東京国立近代美術館フィルムセンター(京橋)で見てきた。写真家5人の作品を集めた企画展だ。同展のページはこちら。
<即物的なレンズの描写力を乱雑な街頭にむかって差し出す>とチラシで解説されている金村修は、たとえば「未来都市TOKYO」あるいは「ノスタルジック江戸」といったファンタジーなど全く探そうとしていないように見える。代わりに、本当に今僕が目にしている東京がそのまま写し出されている。電線、居酒屋の看板、放置自転車。
<「距離の不在」、すなわち写真の特質と考えられてきたパースペクティブ=見通しを放棄すること。対象を遠近という尺度で配置することで「風景」を成立させていた距離そのものが失効した、この距離の不在という状況>と同じくチラシにある。これらの写真にぴったり当てはまる言葉だ。
しかし同時に思うのは、こうして直に向き合ったはずの「距離なき東京」も、展示され鑑賞されるプロセスの中で、やはりある種の「風景」と化し、拒否しようとしたものと同質の「距離」を持ってしまうのではないか、ということだ。
では、真に「距離なき東京」は、金村修がシャッターを押した場には存在したのだろうか。あるいは、休みが開けた月曜日、あなたが乗った通勤電車の窓からならそれは見えるのだろうか。
いや違う。そこに見えるものもまた、なんらかの「距離」を持った「風景」としての「東京」でしかあり得ない。
僕たちは、類型化された、あるいは、ウソくさい写真にうんざりしている。それは事実だ。しかし、そもそも僕たちがなにかを眺め、なにかを切り取ったその瞬間、もう「風景」による操作を招き、「距離」が忍び込んでくる。眼がものをとらえて配置する作業には、これまでにインプットされたあらゆる「風景」と「距離」がいやでもつきまとう。それどころか、既成の「風景」や「距離」なくしては、どんな認識も成りたたない。それが原則だと思う。
「風景」と「距離」を拒否できるなどと信じないこと。ただ、うんざりしないような「風景」、うんざりしないような「距離」との出会い、それを願うこと。
*僕がこの写真展を知ったのはこちらの情報。また、金村修作品を最初に見たのはこちらの雑誌。感謝。
*上の画像は、部屋の窓からデジタルカメラで撮った風景をレイアウトの都合上置きました。いわゆる「この画像は記事と関係ありません」が、何らかの関係を見るのは自由です。