脈絡のなさ
読書/回想
後藤明生『挟み撃ち』
後藤明生の小説「挟み撃ち」は昭和48年の作。作者も主人公も昭和ヒトケタ世代。20年前上京した時に着てきた外套の行方が突然気になりだし、そのころ住んだ場所を訪ね歩く。その間に、自分に起こったいろいろの出来事が連鎖的に思い出される。戦前の朝鮮での生活。戦後の引き上げ生活。そして上京してからの浪人生活。ただし、主人公が外套を探している理由や過去を回想している意味、さらには作者がそういうことを書いている意図は、なんだかいつまでもはっきりしない。それぞれの場面だけが年代を超えて行きつ戻りつ、ぐずぐず流れる。そうしてそこまでの長いつぶやきとはわざと脈絡を欠いたラストシーンが来る。
大事なことは、「挟み撃ち」が、何かをきっかけに考えをめぐらす思い出すということを描写している小説であることではなく、「挟み撃ち」を読むことが、何かをきっかけに考えをめぐらす思い出すという体験そのもののようであったこと。この一点が素晴らしく奇妙だ。僕はこの小説を読みながら、主人公の今(昭和48年ごろの東京)と昔(終戦前後、そして上京した昭和20年代)を想像することになったし、さらには僕の今(ヘイセイの東京)と昔(昭和30年代から40年代の少年期、そして前回上京した50年代の青年期)を追想することにもなった。考えることは生きることと同一とは言えないが、考えることと小説を読むことはかなり似ている。とりわけ思い出すことと小説を読むことは、もはやそっくりかもしれない。
後藤明生は「小説そのものを題材にした小説を書く」とか言われていてずっと気になっていたところに、最近の著書で「小説を書くのはなにより小説を読んだからである」とか言っているので、ガゼン読みたくなっていた。
ともあれ「挟み撃ち」はいくらか突然に脈絡もなく読むには最適の小説ですよ。
この話は続きそう。また後日。