ボルヘス『伝奇集』
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」
いわゆる古典文学は、図書館で永久不変の保管がなされていることを常に確認しているので、めったに買わない。読みかけで書架に戻すときも、いつでも同じ書物に再会できるのだから、今回はこれくらいで、といった意識でいる。ボルヘスの『伝奇集』も、もうその部類だろう。文庫本も買ったけれど、いくつかの世界名作全集で適度に目を通してきた。今回借りた『伝奇集』は、集英社「ラテンアメリカの文学」第1巻だ。訳者は篠田一士。1984年の発行なのでべつに新しくはないが、あまり見慣れない装丁だった。そのせいかどうか‥‥。
「伝奇集」は、第1部「八岐の園」と第2部「工匠集」に分かれ、合わせて17の短編を集めてある。両部とも冒頭には「プロローグ」としてボルヘスによる短い説明書きが付き、書かれた年代も「1941年」「1944年」といちいち記されている。なお今回の『伝奇集』には、表題作のほかに「エル・アレフ」「汚辱の世界史」という2作品も収録されている。また表紙をめくると、刊行に合わせたニューズレターが別紙で挟み込まれている。当然、巻末には解説もある。
まあそんなわけで、第1部の一作目「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を読む――。ある結社が何世紀にもわたって秘密裏に仮構してきた「トレーン」とかいう、いわばオールタナティブな世界が、どうやら現実の領域に浸潤してきているらしい。話の筋としては、そのトレーンを記述した決定的な一冊の書物に「わたし」がめぐりあった経緯のあと、それを手掛かりに、際限なく奇怪なトレーン世界の様相(これがメインコンテンツ)を「わたし」が解説していく。
のっけから「おおこれぞまさしくボルヘス!」。ただし、おそらく「伝奇集」は、作者の空想に煽られた読者が自ら羽ばたいてこそ遥かな空に飛び立てる。したがってここでの紹介は、すでに飛翔した人に向けた応答でしかない。それにしても、一作目だというのにこれまだ読んでいなかったのかな。いやはや。
さてこの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」で、おやっと思ったのは、今言った「わたし」の解説がいったん終り、《追記》と題されたパートが出てきた時だ。そこでは、それまでの語りを受けてこう書く。
《わたしは上述の論文を『幻想の文学選』(1940年)にのったとおりに再版する。現在からみるとつまらないと思われるいくつかの比喩と皮肉な要約のみを除いて。あれ以来あまりに多くのことが起こった‥‥それらをここに記すにとどめよう》。
トレーンという存在のややこしさ、それを語る形式のややこしさに十分あてられていた私は、ここにきていっそう撹乱させられずにはいられなかった。いま『伝奇集』という書物を開いていて、その中に「伝奇集」という小説が掲載されていて、その第1部の、第1作として「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」という話が書かれていて、その中でボルヘスらしき「わたし」が、ある不可思議な書物について語っている、といった基本構造が、本当に揺らいでしまう瞬間だったのだ。書物の不定性。そして世界の不定性。この本の成り立ちそのものが、この本の中身が醸しだす雰囲気とそっくりだ、ということになろうか。ああまったく、『伝奇集』は、どこまでが枠組であり、どこからが内容であるのか。それはつまり、どこからどこまでが現実なのか虚構なのかということでもある。そしてこの思いは、この世界は・・・。
◆
それにしても、インターネットこそ不定世界の隠喩にほかならないかもしれない。内緒で「バベルの図書館」と呼んでいる人もいるんじゃないか。だから、たとえば「ヨハン・ファレンティン・アンドレー」を検索するとどうなるか。トレーンと同一とみなすべき存在に「ウクバール」という国があって、そのウクバールに触れた文献を最初に著わしたのが、このヨハンという人物だ。一六四一年の出版。ドイツの神学者。薔薇十字の共同体を予言したともいう。・・・あ、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」にそう書いてあるということです。えっ、もしかして実在の人物?、歴史上の。・・・いやまさか。ボルヘスに騙されるふりはしてもいいけれど、本当に騙されてはいけない。実在するわけがないじゃないか・・・いや、でも、う〜む。だいたいボルヘスの小説には、地名・人名の固有名がもっともらしくやたら出てきて、確かめるすべもないのが悪い。しかしそうかといって、ネット上にあるものと、現実にあるものを混同するのもどうかと思うね。だが近ごろは、現実にアクセスするよりネットにアクセスするほうが「現実」味を帯びている私(たち)のような生活者が、しかも、今しがたボルヘスを読んだばかりのものが、こうした検索結果で出現してくる世界を、実在でないと言い切る資格はあるのだろうか。
前置きが長くなった。その「ヨハン・ファレンティン・アンドレー」の検索結果はこちら。
一件だけ出てくるというのは、年末ジャンボ宝くじでいえば一等に値する。山下晴代さんという方のサイト。この人は「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の翻訳に自らチャレンジし、それを通じて刺激的に満ちた発見をしている。
いや、その発見に至る前に、私にとってそもそも刺激的だったこと。山下さんが、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の文章を少しずつ取り上げて、篠田一士の訳文、鼓直の訳文(岩波文庫版)、それに山下さん本人の訳文を並べ、さらにはスペイン語の原文、英語の訳文、フランス語の訳文も一緒に載せていたことだ。そうか『伝奇集』は一つじゃない! まあ当たり前のことだが、虚を突かれた。それだけでなく、ボルヘスは『伝奇集』を1944年に出版したあと、1974年刊行の『全集版』(全一冊)にも「伝奇集」を収録したという。篠田一士は1968年に一度「伝奇集」を訳したあと、1978年にはこの『全集版』を定本にした新訳の「伝奇集」を著わした。それが集英社の『世界の文学 9巻』に収められた。この本は山下さんの「座右の銘」だとも言う。ちなみに今回私が借りた『伝奇集』には、この『世界の文学 9巻』の翻訳を再録したようだ。はあ、ややこしい。
さて、山下さんによる発見その1。篠田はスペイン語の『全集版』を定本にしたと述べているにもかかわらず、篠田が訳した「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」には、英語版に引っ張られたとしか思えない箇所があること。そもそも「あれ篠田一士ってスペイン語の人だっけ?」と首をかしげる人は多い。さらにおもしろいのは、篠田は、実は、英語版の『伝奇集』について、《書き加えを主とした異同が各所に認められ、その多くは、少なくともぼくには、改悪としか考えられない》と非難しているのだ(今回私が借りた『伝奇集』の後書きによる)。何がどうなっているのか。
発見その2。鼓直はスペイン語が専門だから、当然「伝奇集」の原文を直接日本語に訳したと考えたい。しかし、山下さんによれば、《前々から、漠然と感じていたのだが、どうも、鼓氏は、「英訳から訳しているかもしれない」篠田氏のテクストを参照しつつ訳したのではないか》ということだ。
発見(というか知識)その3。一方で、この『伝奇集』英語版というのは、当のボルヘスがけっこうお気に入りだったとの説がある。山下さんは、《この英語版は、どうもブエノス・アイレスで、原書が出たとき同時に訳された(Emeceとかいう出版社で。ゆえに、訳者に名前はない)ようだから、おそらくBorgesも監修していると思うし、彼は英語も母国語と同じくらいにできるので、私の想像では、まったく別のテキストであることを楽しんだのかもしれない》と指摘している。なるほど、ボルヘスにとって書物とは、自ら署名した作品であれ、そういうものなのか。書物の不定性というモチーフは、ここにまた次元を移して現れた。どんどんぼやけていく『伝奇集』の輪郭。
まあそういうわけで、書物は、翻訳という作業、あるいは出版という作業によって、その姿がいくらかぶれていくのを避けられない。その宿命を再認識すると、当然、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の冒頭に思いは戻っていく。作中で、友人の所有している『アングロ・アメリカン百科辞典(第46巻)』は、不思議なことに、一般の『アングロ・アメリカン百科辞典(第46巻)』と違って、巻末に見知らぬ4ページ分がつけ加えられていたではないか。しかも、語り手の「わたし」が、ウクバールに関する記述に出会うのは、まさにその4ページにおいてなのだ。
◆
余計な話。集英社版のタイトル「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は、上記の山下さんのページでは「トゥルーン、ウクバール、オービス・テルティウス」となっている。スペイン語の音に拘ったせいだろうか。ついでにもっと余計なことを言うと、このページの目次にあたる別のページには、なぜか「TLON, UQBAR, ORBIS TERTIUS(トルーン、ウクバール、テルティウス)」と、また微妙に違った記載があって、これは単なるミスかなと思ったりする。
なんでこんなことに目くじらを立てるか。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」で検索すると、もしかして、山下さんのサイトには行き着かないのではないか、という余計な心配である。書物が増殖するだけでなく消失していく契機もここにはあるのか。
◆
さて「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、最後のほうにこんな条りがある。《今や、すべての人の記憶の中で、仮構の過去が他のものの位置を占領している。われわれはそれについて確かなことは何一つ知らないし、それが虚偽であることさえ知らないのである》《もしわれわれの見通しが誤っていなければ、百年後にだれかがトレーンの第二次百科辞典の百巻を発見するだろう》。
もしわれわれの見通しが誤っていなければ、百年後にだれかがボルヘス『伝奇集』翻訳の第百巻を発見するだろう。
◆
まだ書きたいことがあったが、もうこのへんにしよう。それより「伝奇集」の先を読まなくては。感想をさらっと書き留めるつもりが、風呂桶に落とした本が水分を吹くんで何倍にも膨らんだみたいな、なんだかふやけたふうになってしまった。本は、外形も、中身も、感想も、変質しやすいものです。気をつけましょう。