あえて言葉にするなら、こんな感じか

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ラップトップパソコンと小さな音発生機器だけが置かれた暗いステージに、いつの間にか現れたアーティストがうつむき加減にすわり、あえて形容するなら工事現場、飛行場、PA準備中のイベント会場、シンセサイザーのつまみを適当に回す、様々な発信音、周波数の合わないラジオ、などそういう類の、しかし実際に現実物をイメージさせるにはほど遠い電気的な騒音が、場合によってはスクリーンに映し出される色彩や形を同調させながら、大音量で延々続き、ぎっしり満席の観衆は黙って身動きもせずそれを聴いている。そういうものを想像せよ。 青山スパイラルホールの「experimental express 1998」(10月16-17日)。僕は17日に行った。その表現ジャンルをどう呼ぶべきか。実験的電子サウンド、メディアアート、ノイズ音楽、あるいは端的にHEADZもしくは佐々木敦の紹介系とでもするのが最適か。出演はオヴァル、トーマス・ケーナー&ポーター・リックス、ノト、ユルゲン・レーブレ、ハト・サーブレ、クリストフ・シャルル(以上ドイツ。以上間違いひとつあり)、そしてダムタイプの音響ディレクター池田亮司。

たとえばNHKのど自慢と武満徹の音楽が(どっちが上というのではないが)月とスッポンくらい隔たっているとしたら、このイベントで耳にした音は、のど自慢はもとより武満とも地球とアンドロメダ星雲くらいの距離があったのではないでしょうかねえ。

僕にはそれほど極まった感のある表現だったにも関わらず、意外に退屈も疲労もしなかったのは、そこに言葉というものが全く介在しないからではないかと思っている。小説や新聞を読んだりテレビや芝居や映画を見たりするとき(絵を見たりするときでさえ)そこには必ず言葉がまとわりつく。それと比べて違いが際だっていた。

それでも不思議なことに、聞こえてくる音を、ついリズムやメロディー、あるいは既に知っている音に還元して頭に入れようとする傾向が出てくる。それは、僕たちが何かを理解するというような作業は、既に知っているいくつかの言葉を適当に引っぱり出しそれを組み立てることによってしかできないということと相似であるような気がする。

あるいは自分が「既に知っている要素に還元している」などということを意識したこの瞬間、やはり言葉の侵入を受けてしまったのかも、なんてことを思いつつ、それなら逆に、この音を聞きながら頭の中では勝手気ままに言葉をああでもないこうでもないとどんどん反応増殖させ続けるのもいいか、などとも考えながら音を聞いている。それはとても楽しい体験であった。なにしろ小説や新聞記事を読んでいるのなら、使われている言葉がイヤでもなんらかの意味をまとうから、イメージは勝手気ままとはいかず一定のベクトルを必ず持ってしまう。そういうものといちばん無縁のものが、この日聞いた音だった。

(この部分削除)

散漫ですがこの辺で。


Junky
1998.10.18

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