■天然魚はリアルに死ぬか?

デジタルフィッシュの生と死はきみにとっては概念である。
概念だから現実ではないというのは確かに正しい。
しかしそれならこうも考えてみよう。
熱帯魚屋さんで買ってきた熱帯魚に対して
「生き生きしてるなあ」「リアルな命だよなあ」とか感じているきみの頭の動きは、
はたして概念ではないのだろうか?

僕はデジタルフィッシュと天然魚が区分けできないというのではない。

概念としてのデジタルフィッシュは
「生きている」ときみが思えばそれは生きている。
「生きていない」と思えばそれは生きていない。
そういう存在だ。
タンパク質が合成された物体でないことなど初めから分かっている。
それとは違う次元で存在していることを知っているからこそ
僕らはデジタルフィッシュを「生きている」と感じ
デジタルフィッシュが「死んだ」と悲しむ。
リアルとヴァーチュアルリアルの区別がつかないのではなく
全く逆で
はっきりしているからこそ
アクアゾーンを楽しみアクアゾーンを管理できるのだ。

天然魚の場合はどうか。
あなたは天然魚の実体としての死を味わうのだろうか。
たぶん違うのだ。
天然魚が死んだときに味わうのも
実はかなり概念的な死なのではないか。
もっというと
親しい人が死んだときに悲しいのも
死という概念抜きにはありえないとすら僕は思う。
なにを言うか!と怒る人がもしいたら
それは概念というものを軽んじ
概念の「死」に向けた概念の「悼み」というものを
軽んじ過ぎているよ。

天然魚の天然死は
実体の死と概念の死がいっしょになっているから
概念がそこに作用していることなど
つい忘れてしまっていただけなのだ。
デジタルフィッシュの死の場合は
天然魚のような実体を伴わないことは知っているけれど
概念の死に限っては
デジタルフィッシュも天然魚と同一である。

わざわざ書いてしまった。
いまさら言うことではない。


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