大澤信亮「コンプレックス・パーソンズ」
語りの三角関係
小説「コンプレックス・パーソンズ」(大澤信亮)は、職場の男女が三角関係で揉める話だ。後輩の男が、先輩の男を追放することで、由記子という同僚の女を奪いとる。しかし、やがて新たな後輩が現れると、こんどは自らが先輩として批判され、由記子からも反逆される。…待てよ。これは、腐敗した政権を革命によって倒した新政権が、同じように腐敗し自滅していく、そうした宿命の寓話ではあるまいか。楽な仕事をいいかげんにあしらう先輩=国家権力、辛い仕事をまじめにこなす後輩=革命勢力、後輩が思いを寄せるが既に先輩と交際している由記子=支配の対象(領土・人民・財産)、といった図式。そうなると、たとえば、先輩が許せないのか由記子が欲しいのかどっちなんだという自問は、革命が望むのは権力の打破なのか権力の所有なのかという迷いにも見えてくる。このほか、左右田および外野という名のお調子者が職場の人気をさらうことで、後輩の男は孤立感を覚えるのだが、彼らは煽動のポピュリスト(「そうだそうだ」のやじ馬)であるといった見立てもできる。
深読みだろうか。でもそれは仕方ない。この小説が載ったのは、かの『重力』(02号)だ。おまけに「68年革命」などというテーマが真正面に掲げられている。深読みというより、ベタ読みというべきかもしれない。だから「これはもしかして、45年も68年もともにバカらしい高度資本制の消費者たる現代大衆がついに覚醒する希望についての話だろうか」などという勇み足も、おもしろいのではないか。
ともあれ、この構図にノせられて読んでいくと、文中にときおり現れる「制度」そして「対話」というキーワードが意味深長だ。「もしも、制度というものが、対話というものによって乗り超えられるなら、その条件とは何だろう」。そんな問いが浮かんできた。それは国家の話のようであり、男女の話のようでもあり。いや実は、これらをひっくるめて、「なにかを語る」という「制度」と、「なにかを語る」という「対話」との、根源的なせめぎあいを試みることが、すなわち「コンプレックス・パーソンズ」の創作だったんじゃないか。抽象的だが、そんなふうに腑に落ちた。
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制度は、先輩と由記子との堕落した関係として現れる。先輩はその制度が心地よい。だが後輩の「わたし」はその制度が許せず、先輩から由記子を奪って制度を打倒したつもりになる。ところが、こんどは自らが由記子との関係を維持するために、同じ制度にはまってしまう。《恋愛という制度の意味を変えるなどと大見得を切っておきながら、わたしは最も姑息なかたちで恋愛という制度に執着したのだった。》
こうして後輩から先輩へと立場を転じた「わたし」の前に、やがて新たな後輩が登場する。そして同じように由記子との関係を糾弾する。恋愛という制度をめぐって先輩と後輩の間に対話が生じるのはこのときだ。つまり、「わたし」は後輩の段階では対話など望んでいなかったが、のちに「わたし」が先輩の立場になって後輩と対峙した段階で、初めて対話に賭けてみようと思い立つわけだ。ただしそのせいで、その対話は、制度の打倒ではなく、制度との妥協を目指したものになっていく。
ところで、後輩に追いつめられた先輩は、由記子を手放すまいとして、夫婦というさらなる制度を求める。《おれは別の制度に移ればいいと思う。そう割り切ってしまえば、恋人という制度よりもっと強力な夫婦という制度があるじゃないか。》しかも、それを実現させるため、由記子を無理やり妊娠させようと謀る。だが、由記子にそれを見透かされると、先輩は言い逃れ、開きなおり、泣きおとしを繰り返す。こうして、恋愛の制度をめぐる対話は、男女間の支配と独立をめぐって修羅場のような第2ラウンドとなる。
この対話もまた、「わたし」という語り手が先輩から由記子へと転じた直後に起こる。この修羅場は、たがいの本音を正直にぶつければ解決するといった単純なものではない。むしろ、男女の関係が切迫し制度が破綻する寸前になると、思いがけず対話というものが浮上するのか、といった期待を持たせる。しかし、結局行き着いたのは《「君がいなくなったら、おれは、もう生きて行けない」「なら死んで」》というなし崩しのやりとりでしかなかった。先輩はそれにひきずられるように自死していく。
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この小説は《一人称で語ることに違和感がある。》という書きだしで始まる。一人称で文章を書けば、「わたし」が自動的に生じるが、その「わたし」はどこか偽りの私であると感じられる。では、偽りではない本当の私がどこかにあるのかというと、そうではない。《「偽りの私」も「本当の私」もつまるところ嘘だ。》しかしそのときいっそう深刻な問題が生じる。《「本当の私などない」と悟りきったわたしは、結局のところ、積極的なものに対して極端に疑い深くなり、自らの不甲斐ない生活を「本当の私などない」という言葉で慰め、そうすることで、いつか「本当の私」が到来するのを待っていたような気がする。》
この違和感に対抗するようにして、この小説の語り手である「わたし」は、後輩〜先輩〜由記子と移り変わる。先輩、後輩、由記子という具体的な「わたし」が、それぞれの事情に応じた一方的で一度きりの切実さを保ったまま、それでも自らになにかを語らせる構造や自らを関係させていく制度とその反復には自覚的である、そのような対話を実践させようとした、ということかもしれない。ここに、恋愛という制度の問題と、語るという制度の問題が重なってくる。あるいはもっと普遍的な制度の問題を重ねても無理はないだろう。書き手は(したがって読み手も)、制度の力あるいは制度を変える力というものを、ときには物語の運動、ときには叙述の運動、そうした運動の体験そのものとして考え抜くことになる。――だいたいこんな理解でどうだろう。
ともあれ3人の「わたし」が登場した。一人目の「わたし」は制度をやっつけようとして語りはじめた。それを回収した二人目の「わたし」は制度と折り合おうとして語った。最後の由記子という「わたし」は、そこまでの「わたし」を死に至らしめつつ、自分たちの制度への依存とその致命的な反復を断ち切るため、そこまでの「わたし」の語りを、新たな「わたし」の語りに変えようと試みる。つまり「語るという制度」を「語るという対話」によって乗り超えようとする。その試み全体がこの小説だ。由記子の試みが成功したかどうかは、「コンプレックス・パーソンズ」という小説が成功したかどうかと同義ということになろう。
「わたし」の転換という問題は、この小説を書く動機やこの小説を読む体験を理解するために、最も欠かせないポイントだ。しかし、私のまとめは、なお抽象的で不十分。骨格や展開を練りに練ったとおぼしきこの作品には、それと同程度に本格的な分析が求められる。たとえば、古谷利裕さんは、「わたし」の転換を徹底的に追跡したうえで、その目的や効果についてきわめて重要な指摘をしている(『web重力』03.7.05))。これは完璧といえる分析で、大いに参考になった。
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それにしても、制度とは悩ましい存在だ。たとえば先輩の「わたし」は、こんなことを独白している。
《制度は自転車のようなものだった。あまり何度も転ぶので、頭にきて途中で練習を止めてしまい、それ以来自転車もそれに乗れる人も憎み続けていた人間が、ある日ふとしたきっかけで乗れるようになると、そんな憎しみなどあっさり消え去ってしまう、まさにそんな感じだった。乗れない人間が乗れる人間にする批判など、それがいくら正しくても、耳を傾ける気になれない。彼らは批判したくて批判しているのだから、早く乗れるようになるといいね、としか言えない。》
しかし、先輩が忘れてはならないのは、次のような姿勢だ。
【人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。】(坂口安吾「堕落論」)