中国映画 あの子を探して 喜怒哀楽の起源


悲しきラーメン



カレーライスに使われるスパイスや具は店によってさまざまです。野菜炒めも同じで、入っている野菜が全く一緒ということはありません。ラーメンもそう。麺もスープもいろいろです。それでも私はそれらを常に「カレーライス」「野菜炒め」「ラーメン」と呼び、さほど問題なく注文し、さほど問題なく味わっています。

「喜び」「悲しみ」「怒り」といった感情とか情動とか呼ばれるものも、似たような成り立ちをしているらしい。1軒のラーメン屋において、さまざまな麺から1つの麺が取り上げられ、さまざまなスープから1つのスープが取り上げられ、さまざまな具から1つの具が取り上げられるように、「悲しい」という感情も、脳神経と身体の基本的な反応の要素(たとえば気落ちするとか涙腺がゆるむとか、いやもっと基本的なことかもしれませんが、ともかくそういう要素)のいくつかが、その都度個別に呼び出され重ねられて、ようやく出来上がると考えたほうが正しいらしいのです。

つまり、「悲しい」という感情は、単純な基礎的な反射かと思いきや、実はもっと細かく分解できる部品がまとまって出来ており、まとまりの枠組みも固定的でない。一律「悲しい」と名付けてはいるものの、その時に起こっている脳神経系と身体の反応には無数のバリエーションがあるわけです。スープが豚骨であっても醤油味であっても麺が細くても太くても卵や海苔がのっていてもいなくても、ラーメンが「ラーメン」であるようにです。もちろん、ラーメンにおいて、スープがトマトケチャップだったり麺がうどんだったり、ましてや「おい待てこれ麺が入っていないぞ親父!」という事態だったりすると、さすがにそれは「ラーメン」とは言い難くなってしまうように、「悲しい」にも、「悲しい」と感じるだけの素材の範囲、「悲しい」と感じるだけの素材のまとまりの範囲、さらには「悲しい」を呼び起こす調理方法や食器(?)の範囲なんかもある程度決まっているということはあるでしょう。また、「悲しい」を構成する素材の中には、醤油味にシナチク、豚骨に紅ショウガといった、即座にくっつくペアも当然あることでしょう。

ともあれ。

親が死んで悲しい。巨人が負けて悲しい。水虫が治らなくて悲しい。それぞれの場合における脳や体の反応は、詳しく観察すれば同一であることはない。むしろかなり違う素材をかなり違う方法で調理しているかもしれない。でもいずれの時も「悲しい」と感じる。会社が倒産しても悲しく、猫が行方不明になっても悲しい。そのことを思い出しても悲しい。テレビドラマや小説で同じことが起こっても悲しい。こられの感情がすべて同一メニュー「悲しい」であるとみなす根拠はどこにあるのか。こういう問いをめぐって、さまざまな研究や見解があるようですが、私としては、たとえばこう仮定してみたい。

脳や体の反応の多様な組み合わせである無数の「悲しい」を、同一の反応として認識する根拠は、「悲しい」という同一の言葉使いにある。複雑でゆらぎがちな意識や生理が、「悲しい」「嬉しい」「怒り」といった言葉によって初めて、あたかも根源的で自明な「感情」であるかのように束ねられているのではなかろうか。

・・・ついでながら、感情・情動と言われてパッと頭に浮かぶのは、今出たような「喜び」「怒り」「悲しみ」に、せいぜい「寂しさ」とか「楽しい」くらいしかないように、「最近何食べてます?」と問われ「そうですねえ、ラーメンにカレーですか。あと野菜炒め。それと回転寿司に・・・」くらいで終わってしまうのは、いったいどういうことだ!という疑問もわきあがってくるわけです。感情のメニューだけでなく食事のメニューも実に貧困な現実。まそれはそれとして・・・

先日、「あの子を探して」という中国映画を見ました。「赤いコーリャン」などで国際的評価も高いチャンイーモウ監督の作品です。この映画も評判はすこぶる良く、渋谷Bunkamuraの上映館は満席続きでした。私も期待に違わず堪能できた一人です。特に興味深かったのは、中国の農村と都市がそれぞれに持っているあのいわく言い難い雰囲気を、もののみごとに追体験できたことです。中国を旅行したことのある人なら、この映画にきっと同じ感想を持つことでしょう。

この映画によって私の中に鮮やかによみがえり立ち上がってきたこのカンカク。それを私は「中国しい」と呼ぶことにしました。

「中国しい」とは、あの、中国の農村のあまりのボロさ、中国の都市のあまりのヒドさ、しかしそういう言葉だけではカバーしきれないあのカンカクのことです。そこには人々の声、町の匂い、食堂の味など五感がさまざまに入り交じっています。観光で見知った中国への侮辱も憧憬も含まれています。もちろん上海の繁華街と雲南の田舎とでは、このカンカクをもたらす素材もその性質も相当違っているはずなんですが、それでも、その都度同じようにざわめいているように感じる私の脳と体。これまでそれをピタリ形容できる言葉はなかったのですが、これからは「中国しい」と名付けることにするのです。

そうすると、ほら「中国しい」が、だんだん、はっきりした認識として定着してきませんか?

きませんか・・・。う〜む。



参考書しい=「喜怒哀楽の起源」(岩波科学ライブラリー・遠藤利彦著)


Junky
2000.8.29

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