サイモン・シン『フェルマ−の最終定理』
 イタロ・カルヴィーノ
『冬の夜ひとりの旅人が』




イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳・松籟社)を読み終えた。

この小説は、ある特殊な事情のせいで、つながりを欠いた多数のスト−リ−が、章を追うごとに次々出現してくる。どれも刺激的で謎めいた展開をみせる。だがふと気がつくと、あの設定もこの台詞も、実はこの本自身について、この本の成り立ち自体について目先を変えつつ言及しているのだと思えてくる。全ペ−ジのあらゆるくだりが、見事なまでにそう読めてしまう。そんな長丁場のうちに、作者カルヴィ−ノと登場人物、さらには読んでいるこの私とが、ただひとつの問い、平たく言えば(とりあえず平たくしか言えないので)「小説ってのは、いったい何を書いてるんだ?」「小説ってのは、いったい何を読んでるんだ?」という問いをめぐって、そろって七転八倒しているのだった。

レビュ−なら、こちらのペ−ジがいい。 すみ&にえ「ほんやく本のススメ」というサイト。双子のお二人が一冊の本を読むとのこと。それがまたこの小説とどこかシンクロしているみたいで。

さて今言ったように、この本はどこを切っても全体の相似形にみえるのだが、たとえば、最後のほうで、図書館で本を読んでいる人たちが読書について各自の見解を述べるなかに、こんなのがある。

それで私が到達した結論は読書というのは対象の存在しない作業であるというか、読書の真の対象は読書自体であり、本は補助的な支え、あるいははっきり言ってかこつけにすぎないものだということなんです。

私が読む新しい本のひとつひとつが私がそれまでに読んだいろんな本の総計からなる総体的な統一的な本の一部に組み込まれるのです。でも安易にはそうなりません、その総括的な本を合成するには、個々の本がそれぞれ変容され、それに先立って読んだいろんな本と関連付けられ、それらの本の必然的帰着、あるいは展開、あるいは反駁、あるいは注釈、あるいは参考文献とならねばならないのです。何年来私はこの図書館に通って来て、本から本へと、書棚から書棚へと渉猟しているのですが、でも私は唯ひとつの本の読書を推し進める以外のことはしていなかったと言えましょう。》

ともあれ大きな読書体験を積んだ。しばし感慨にふける。続いて次の本を開いた。『フェルマ−の最終定理』(サイモン・シン著・青木薫訳)。この定理にまつわる歴史と、ついにその証明を成し遂げた数学者アンドリュ−・ワイルズを追ったドキュメンタ−だ。まだほんの読み始めだが、冒頭で、ケンブリッジ大学のある一室でワイルズがまさに今かの定理を証明せんとする場面が描写される。

三枚ある黒板が計算式でいっぱいになり、講演者は一息ついた。そのあいだに一つ目の黒板が消され、ふたたび講演が続けられる。あたかも数式の一行一行が、解決に向かって一歩ずつ小さな歩みを進めているかのようだった。だが、講演がはじまってから三十分を過ぎても、これが証明ですという言葉はない。最前列に陣取った教授連は、いまや遅しと結論を待ちうけ、後ろの方で立ち見をしている学生たちは、結論はどうなるのだろうと上級生のようすをうかがている。いま自分が目にしているのは、フェルマ−の最終定理の完全な証明なのだろうか。それともこの講演者は、証明には至らない尻すぼみの話をしているだけなのだろうか。

ここを読んで私は、読み終えたはずのカルヴィ−ノが再び舞い戻ってきたかと錯覚してしまった。とりわけ、「これが証明ですという言葉はない」「証明には至らない尻すぼみの話をしているだけなのだろうか」という疑念がわきあがるあたり。

フェルマ−の最終定理はとても単純な形をしている。ところがその定理を証明するのは圧倒的に困難だった。証明しようとして証明できないまま3世紀が費やされたということだ。「小説を書くとは、小説を読むとはどういうことなのか」というのも、同じく問いは簡単だが答はそうそう出てこない。

《・・・ある意味で数学者はみな、一人一人別の道をたどり、別の目標を立てながら、実はフェルマ−の最終定理に取り組んでいたのだという。なぜならその証明には、現代数学のすべてが必要だったからである。ばらばらになったかに見えた数学の諸領域をアンドリュ−がふたたび結びつけたいま、この問題の誕生から今日までに起こった数学の分岐はすべて、起こるべくして起こったものに思えるのである。》これは『フェルマ−の最終定理』の序文から引いたが、この数学の究極問題は、どこか文学の究極問題と様相が似ていないだろうか。

さらには、《フェルマ−の最終定理の歴史は、誤った主張の残骸の山だ。アンドリュ−だけは例外であってほしいと願ってはみるものの、彼が数学の墓場にならぶ墓石の一つではないと思うのは難しかった。》という一文。ここからは、『冬の夜ひとりの旅人が』におけるカルヴィ−ノの奮闘と読者の疑心暗鬼がいやでも思い起こされるではないか。

そういうわけで、さっきまで読んでいた『冬の夜ひとりの旅人が』と、今読んでいる『フェルマ−の最終定理』とが、なぜだか継続性を持ち相互に参照できかねない事態であり、上に引用した読書に関する見解を、すぐさま私自身の実例として見せつけられたようで、感動してしまったというわけ。

もちろん、フェルマ−の最終定理は「これはこうである」という形の命題であって、「これは何か」という問いではない。そもそも数学の問題は、解決したかしていないか、その証明は正しいか正しくないかといった区別が明白だろう。それにひきかえ 「小説を書く、読むとはどういうことなのか」なんてのは、どんなに華麗な証明がなされたとしても、問題が解決したという実感にはついに達しないような気がする。だから、なんでもかんでもごっちゃにすべきではないということになるわけだが、それはそれとして。

常識的な感覚として、数学と文学では問題の性質が違う。つまり、文学の言語は数学の言語ほどの厳密な分析には適さない。これは、我々がふだん使う言葉が宿命的に曖昧さをはらむせいということになるのだろう。この曖昧さの実体についての考察はいろいろなされてきたとおもう。しかしそれより私としては逆に、数学の言語がすこしも曖昧ではないとしたら、それは本当にそうなのか。あるいはそれはどのような限定のもとに成り立っているのか。つまるところ数学の本質とはいったい何なのか。そんな疑問がまた急に迫ってきた。が、今そこまで話は広げられない。少なくともこの本『フェルマ−の最終定理』を、できるだけ読んでみてからでいいだろう。

*少し補足すると、フェルマーの最終定理は、「ある方程式に解は存在しない」という形の定理である。その方程式は経験上どうあがいても解が見つからないにもかかわらず、解が絶対に存在しないといえるだけの理由を示す(つまり証明する)ことが困難を極めたのだ。ワイルズは、その「解が存在しないこと」をとうとう証明してしまったわけだ。

*もっというと、フェルマーの最終定理(その方程式に解が存在しない)は、正しい(つまり解は存在しない)のだけれども、その証明は永久にできない(つまり解が存在しない根拠を数学によっては永久に説明できない)定理である可能性もあった。つまりフェルマーの最終定理がゲーデルのいう不完全性定理に当たるのでは、という推測だった。ワイルズの証明は、フェルマーの最終定理が不完全性定理ではなかったことを示したということにもなる。

*で、ここで無理やり「小説とは何か」という問いに結びつけると、この問いもまた「解答はない」と誰もが経験的に感じている点が、フェルマーの最終定理に似ている。もちろん数学とはぜんぜん異なる次元の話だが、それでもその言いまわしにおいては一致するのだ。加えて、「小説とは何かという問いに解答はない」ということを「定理」とみなせば、この「定理」は正しそうだが証明するとなるとちょっと難しい、いや難しいどころか、そもそも小説によっては永久に証明できない「定理」なのかもしれない、といった推測も出てきそうだ。やはり次元はまったく違うけれど、言いまわしにおいては、またもや不思議に一致しそうなのが、おもしろい。ああなんだか難しげなことを書いているなという感じがまた変態的におもしろい。

今の補足を繰り返そう。「小説とは何か」の問いに答えはなさそうだ、という哀しい話にはとどまらない。「小説とは何か」の問いに答えがないどころか、なぜ答がないのかを説明すること自体が、小説には永久にできないのかもしれない、というもっと複雑に哀しい話なのである。『冬の夜ひとりの旅人が』の哀しさは、ついにはそういうところにまでイタロ・カルヴィーノ。


Junky
2002.12.14

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