■浅田飴ではなく浅田彰の話を聞いた。新宿にオープンした科学技術&芸術文化のミュージアム「NTTインターコミュニケーションセンター=ICC」のシンポジウムだ。むかし竹中直人が物まねした「浅田アキラカさん」の謎深い陽気さとは違ったが、歯切れの良いしゃべりだった。竹中直人風の浅田彰はちょっと永六輔っぽかったね。「咳声のどに浅田飴。」
■オープニングでは数多くの作家のアート作品が展示されたほか、ノイズを発生させる装置を衣装に付け館内を動き回るという奇妙なパフォーマンスも見ることができた。しかしぼくにとって何よりの楽しみは生の浅田彰を初めて目にするということだった。
かつて筑紫哲也が編集長になって初めての朝日ジャーナルで、ニューアカデミズムの呼び名とともに表紙を飾っていた浅田彰。分厚い眼鏡の顔がど〜んと載っていたのが昨日のことのようだ。(歴史の生き証人という感じになってきた。年はとりたくない)そのあと、なんかのビデオで渋谷陽一と対談していたのも見たことがある。しかし実物は初めてだ。
ダムタイプのメンバーらアーティストたちとの討論は、難しいキーワードが絡み合うべきポイントになかなか達せずぐずぐずしていた。しかし司会の浅田彰さんはどんな場合にも話を即座に要約しかつそれぞれのアーティストに敬意を保ちつつ正確な質問として投げ返していく。その頭の回転、口の滑り。「さすが」と感動してしまった。
■ところで、ICC会場に展示されていた作品を見て回りながら、物体にじかに触れるのではなく、それをメディアやテクノロジーに通すことで、ごくつまらないものであっても僕らは全く新しい問いや意味を切り開いていける、とにかくそういう前提があるように思えた。たとえば隣家のおじさんが晩のテレビニュースに映ったりしたら理由は別にしてつい目をみはってしまうだろう。テーブルのふじリンゴがもしわざわざ年賀状なんかに印刷されていたらうっとり眺めてしまうだろう。そういうこと。
しかし、浅田彰という物体との遭遇もまた一種のコミュニケーションであるわけだが、それが印刷という媒体を通すよりもビデオというテクノロジーを通すよりも、僕にとっては生会話そのものの方がインパクトが強かったのだ。つまり位置というか価値の逆転だ。
シンポジウムに先立ってNTTのPRっぽいVTRが流れ、「語る、聞く」から発展してきたコミュニケーションの歴史が述べられたが、目の前で人が語りそれを直接聞くという原初的なコミュニケーションは、いまなお、テクノロジーおよびメディアによるそれに負けず劣らず誘惑的で謎めいているのだと思った。

* 参考にICCのホームページ

■なお上に掲載した画像は、浅田彰氏の顔をレーザー光でストロボ撮影しガラスとカーペットに透過させてブレを生じさた像。ブラウズする者がクリックするマウスの周波数によって表情がランダムに変化する。高度なテクノロジーを用いたインタラクティブなメディアアートである……わけはない。


Junky
1997.4.23

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