いいですねえ! | No: 531
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ベラビスタホテルは、『深夜特急』で
沢木耕太郎がマカオで泊まったホテルですよね。
で、私もそれに倣って泊まった。思えばもう十数年前です…(いやはや)
その旅行は私にとって二度目の海外で、すべてがエキサイティングでした。
チョンキンマンションは昔からそんな感じだったような…。
その後、チョンキンマンションといえば、映画『恋する惑星』でしたが、
それすらもう10年も昔。
99年にも香港に行きましたが、都市化がいっそう進んでいました。
シンガポールみたいにならず、
猥雑、混沌、そういう街であってほしいのですが(外国人旅行者として)
ともあれまた行ってみたい。
短い日程だとそうもいかないかもしれませんが、
ガイドブックなど参考にしないで、ひたすら歩くことが
理想だと思います。
あとから思えば、
息をのむような驚き、忘れられない光景は、
予定外の時や所にしか現れないように思います。
マカオと香港 | No: 527
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先日行ってきました。
ベラビスタホテルはポルトガル領事館になってました。
チョンキンマンションは出稼ぎ?アフリカ人やらインド人やらがたむろし、
入るとスパイスの香りがただよう、不思議なところになってました。
特に何をするわけでもなく、ほっつき歩いて、
バックパッカーでもないのに安宿にとまって、何してるんだか。
それは日本でも同じだけど
広東語に圧倒されっぱなしだった。
次はどこに行こうかな。
Re: 旅行 | Prev: 525 / No: 526
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ナナカマドさん。旅行記読んでもらえて本当に嬉しいです。
いつか求莱があれば、あまり細かい計画を立てない旅行を、ぜひどうぞ。
旅行の最中は辛かったり怒ったりはけっこう頻繁で、
しかしそれが旅行記ではじつに良い思い出になってしまうので、
そのあたりは「騙された」と思いつつ直に味わってください。
仕事を辞めて失うことと、旅行に出て得られること、
両方あるのは事実ですね。で、どっちがよかったかは、
死ぬときまで答えを出さなくていいか、と思ったりします。
ただ、仕事を辞めなかったら思うように旅行できなかったのも事実だから、
そのときは、両方の比較自体ができないわけで、
そういう意味で後悔が残っただろうと思います。
海外旅行したいと思った理由は、漠然としている部分が大きいのですが、
漠然としていない部分としては、
『深夜特急』や『アジアン・ジャパニーズ』(小林紀晴)を読んだことが
あるかと思っています。
といっても、私はユーラシアのほんの一部の都市や観光地しか知らないわけで、
いつかアフリカや南米も回ってみたいですね。
それと東欧を列車であちこち行ってみたいという気もあります。
昔より今のほうが暇なのですが、
忙しくないと、近所を散歩していても楽しいので、
なかなか思い切って出かけなくなってしまいますね。
旅行 | Follow: 526 / No: 525
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旅行記を楽しく読ませてもらいました。
もう旅行には行かないんですか?行きたいところありますよね?
行くきっかけってなんだったんですか?特に理由もなく?
私もシベリアや中央アジアをほっつき歩いてみたいです。
仕事をやめないことには行けませんが、仕事をやめるのは怖いです。
おわび | No: 524
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この掲示板、チェックはしているのですが、
レスをそのつどさぼって、結局そのままにしてしまっていました。
本当にすいません。
日向敏文『夏の猫』は本当によいアルバムですね!
なかでも私は「chat d'ete」が断トツに好きで、
次は「新しい遊牧民」と「異国の女たち」が並ぶかんじでしょうか。
『夏の猫』は2枚目ですが、1枚目『サラの犯罪』もいいですね。
また、通りがかってください。
シベリヤ鉄道
10年近く前にことですが、
モンゴルのウランバートルからモスクワまで乗りました。
2等寝台(コンパートメントに4人)で
2万円はしなかったように思いますが、
かなり記憶は薄れました。
というわけで、これからも、どうぞご利用のほど。
夏の猫 | No: 523
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日向敏文でグーグル検索していたところ、無人島・・・がひっかかりました。
まさにその通り。私も日向敏文の楽曲は最高だと思います。夏の猫とか異国の
女とか、ずっと聴き続けると思います。
てなわけで、それだけを言いたかった、通りがかりのものでしたー。
失礼すますたー。
質門 | No: 522
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シベリア鉄道に乗って回るには総額いくらぐらいかかりますか?
Re: 最近の作品について | Prev: 520 / No: 521
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> 私の場合は、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』をリアルタイムには読んでいないので、この二つの作品に「倫理」というようなものはあまり感じていませんでした。私が感じていたのは、倫理という積極的?なものよりも、身動きの取れない絶望感(あるいは絶対的な孤独感?)に近いようなものでした。
「倫理」といってもそう複雑なことではなく、上にあるような《身動きの取れない絶望感》は、根拠のあることだから「絶望していけないわけではないのだ」というくらいの意味です。
> …私には、最近の小説には、主人公たちの切実さが(初期のころの小説とはべつの意味で)伝わってくるので、ぐっときてしまうのです。倫理にしたがっているというよりは、もっと、直接的な意志、具体的な苦しみを解決しようする必死さに打たれています。
このへんが、今のところ私とは印象が異なっているところですね。
> ネットが登場したとき、本音と建前がくっきりわかれたように感じました。建前的な台詞は、誰も信じていなかったんだな、とそのときは思いました。今は必ずしもそうは思わないんですが、そのときから、「自分の言葉はそのままは伝わらない」という前提が、多くの人のあいだで共有されたような気がしています。
インターネットが普及してみんながぶっちゃけてなんでも書くようになり、
その結果、
自分は本音だったのに、相手には建前でしかなかったのか、なんてことが
いろいろはっきりしてしまった、といった意味かなと思っています。
しかし一方で、
本音で一致する少数の相手を発見する喜びというのもあり、
これはネットなしには不可能だっただろうと思います。
そこでは、言葉は、ネット以前よりもっとずっと大切にされていると感じます。
最近の作品について | Follow: 521 / No: 520
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私も、直接の返答にはならないかもしれないのですが、Junkyさんの書き込みを読んで思ったことを書いてみます。
Junkyさんの書き込みを読んでJunkyさんが村上春樹に感じているものが少しわかりました。「個人として自閉することの倫理」という言葉の意味もわかりました。
私の場合は、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』をリアルタイムには読んでいないので、この二つの作品に「倫理」というようなものはあまり感じていませんでした。私が感じていたのは、倫理という積極的?なものよりも、身動きの取れない絶望感(あるいは絶対的な孤独感?)に近いようなものでした。
村上作品について私の感触を言うと、『国境の南、太陽の西』あたりより前の作品には、この絶望感に近いようなものを読者も共有していると前提して書かれた文体が使われていて、それ以降の作品は、その絶望感が少しずつ薄らいでいっている、というものです。ごくごく私的な感想なんですが、これが、私がJunkyさんとちがって、私は村上春樹の小説が変化していると感じている大きな理由です。
最近の小説では、主人公たちは現実世界に名前のある場を持ち、その場で、具体的にできることをしようとしているように感じます。知らずに(または表向きは望まないのに)何かに導かれていくというよりは、苦境から抜け出そうとして、意志を持って何かを掴もうとしていている印象が強いのです。だから、私には、最近の小説には、主人公たちの切実さが(初期のころの小説とはべつの意味で)伝わってくるので、ぐっときてしまうのです。倫理にしたがっているというよりは、もっと、直接的な意志、具体的な苦しみを解決しようする必死さに打たれています。
だから、<<しかし今の私は、まず批判し吟味すべきものが「自己」であるとは、必ずしも思わなくなっています。また、問題のまえに佇んでいることが現代に可能なただひとつの倫理だ、とも思わなくなっています>>というJunkyさんの言葉に合わせるかのように、村上春樹の小説も進化しているように、私には感じられるのですが…。
それから、「言葉にまつわる違和感」についての話ですが、Junkyさんは、小説上やネット上でそのことをより感じるとのことですね。私の場合は、ネット上、というよりは、ネット登場によって、かなと思っています。ネットが登場したとき、本音と建前がくっきりわかれたように感じました。建前的な台詞は、誰も信じていなかったんだな、とそのときは思いました。今は必ずしもそうは思わないんですが、そのときから、「自分の言葉はそのままは伝わらない」という前提が、多くの人のあいだで共有されたような気がしています。
村上春樹を昔はこう読んだ2 | No: 519
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ところで、fkさんはこう書いています。
《私には、「現代の現実の世界」がたまに、言葉が通じるか通じないかの、ギリギリの世界に感じられるときがあります。大切な言葉や概念(気持ちや考え)を相手に正確に伝えるためには、それ以前にべつの確実なルートを作っておく(信頼関係など)必要があります。また、意味のない言葉を交わすことによって、言葉を交わしているという事実のほうをコミュニケートしなければならないほど、人間関係のなかで言葉が無意味になるときもあります。》
『アフターダーク』が、こうした状況に対応して成功しているのかどうか、そこは私にはなんとも言えません。また、この状況は、最初に引用した「悩み方」に近いようでもあり、あるいはもうちょっと普遍性をもつようでもあり、それもまだよくわかりません。
しかし、いずれにしても、こうした言葉にまつわる違和感自体には、私は共感するところ大です。ではfkさんが、こうした違和感を最も強く意識するのはどういう場面でなのか、あるいは、それを意識したとき言葉をどう扱うようにしているのか、そんなことも気になりますね。(ちなみに、私がこういう違和感を自覚するようになったのは、どうも日常の会話や交流よりも、むしろ小説を読むこと、あるいはたとえばこうしたネットで自ら文章を書くようになってからのほうが大きいと思っています。)
村上春樹を昔はこう読んだ1 | No: 518
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直接のレスではなく、しかも長いのですが、一応続きのつもりで書きます。
《自分は他者の心を正確に掴むことができないのではないか。この問いはおそらく現代人の誰をも一度は捉える問いである。たとえば、夥しい小説がこの問いをめぐって書かれている。》
《(…)他者の心に達することができないという思いは、ただ、自己自身への過剰な、だから決して満たされることのない関心によってのみ発生する(…)。すなわち、過剰な自己意識が到達不可能な他者の心という幻影をかたちづくってしまうのだ。》
三浦雅士は、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』をこんなふうに評しています(「村上春樹とこの時代の倫理」『主体の変容』)。私も「ああそのとおりだなあ」と感じた覚えがあるのです。
こういう「悩み方」はこの80年代初めに特有だったのでしょうか?=翌るいは、まだ若かった村上春樹やもっとずっと若かった私に特有のものだったのでしょうか?=翌サれとも、時代や年齢には関係なく、ずっと昔から今にいたるまで、しかも誰にでも普遍的な「悩み方」なのでしょうか?
ともあれ、私が『アフターダーク』を読んだかぎりでは、大ざっぱにいえば、上に引用した「悩み方」とさほど変わらないと思いました。そう仮定したうえで、続けます――。
かつて心にしみたのと同じような小説が、20余年を隔てて、なぜ今は物足りなく感じてしまうのか。(下で「どうして感触が昔と今で変わったのか」と書いたのはそういうことです。)
私が若くなくなってもうあまりこういう「悩み方」をしなくなった、という理由は間違いなくあります。しかしそれだけでなく、時代の状況が実際に変わるなかで、中心に現れてくる問題設定(要するに時代の悩み方)が変わったのだ、と考えることもできると思います。
ではどういうふうに時代は変化したか。現代が80年代と違うとしたらどこか。
私にはっきりした答はないのですが、考える手がかりとして、三浦雅士が同じ論の最後のほうで、村上春樹とカートヴォネガットを並べて支持している根拠が、ちょっと参考になるかもしれません。(長いですが引用します)
《戦争をはじめとする人間の悲惨を回避する根本的な手段は政治でも革命でもない。ただ、自己という現象自体を批判し吟味しなければならないだけなのだ。》
《ヴォネガットや村上春樹のこの姿勢を、現実逃避ということで非難するのは容易だ。彼らは主体的に歴史を構築しようとしていないというように。だが、このような人間の主体的なつまりは主観的な行為の連鎖が、文明を生みその悲惨を生んできたのだ。ヴォネガットや村上春樹の文体は逆にそれをこそ痛烈に批判している。そして、ほかならぬここに彼らの姿勢がきわめて倫理的であることの根拠を見出すことができる。/
=翌゙ろん、自己という現象を批判し吟味するという仕事はきわめて困難である。自己という現象も、またそれを批判し吟味するという行為も、人間とその文明によってもたらされたものであるといってよいからだ。だが、他者の心に達することができないという苦悩も、そしてまた核時代のなかで生きるほかないという苦悩も、自己という現象がもたらしたのいくつかの系のひとつにすぎない。/
=卵コ上春樹はその核心的な問題のまえに佇んでいるといってよいだろう。そしてこの佇んでいることのなかに、この時代に可能なただひとつの倫理を認めることができるといってよいのだ。》
ちょっとガチガチの難しい話になってきましたが。ともあれこれについて、私はこう思うのです――。
80年代の始めごろ、私もたぶん、《自己という現象自体を批判し吟味しなければならない》といったようなことを感じていたのだと思います。そして、その問題のまえになんらか《佇んでいること》こそが《この時代に可能なただひとつの倫理》だ、とも感じていたでしょう。
しかし今の私は、まず批判し吟味すべきものが「自己」であるとは、必ずしも思わなくなっています。また、問題のまえに佇んでいることが現代に可能なただひとつの倫理だ、とも思わなくなっています。ごく簡単にいうなら、それはやっぱり時代の状況が変わったせいでしょう。こんなことを言うと「いかにも」と普濫窒゙かもしれませんが、自己をどう問うかという問題自体が、戦争や経済など国内外の状況を受けてやはり変わりうるものなのだ、と思うのです。(具体的には今はおきます)
もちろん、村上春樹の小説が昔と同じ、というのは仮定にすぎず、私の大ざっぱな印象にすぎません(今の村上春樹が80年代とは違っているのを私が見過ごしている恐れはあります)。また、そもそも、時代に合わせて変化すべきことと変化すべきでないことの区別は、誰にとってもきわめて重要なことです。そういうところもきちんと把握したうえで、もっといろいろ考えてみたいと思っています。
『アフターダーク』について | No: 517
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Junkyさん、丁寧な返答ありがとうございます。
それに応えるつもりで、『アフターダーク』が今の私の現実にどういうふうに響いてくるかということを書いてみます。(長くなってしまったのですが…。)
Junkyさんの『アフターダーク』の書評のように、「マリやエリや高橋の問題意識が、こういうふうに抽象性としてしか実相を表せない類いのもの」として(とくに、村上春樹の初期作品からの読者に)感じられてしまう理由は、私にもわかるような気がします。
他の小説なら、読者の共感を引き出すように文章が組み立てられています。たとえば、主人公の過去の苦しい思い出や悲しい思い出を書いたり、何かフックとなるような自明の印やルールが使われたりしています(例が浮かばないけど、ハンカチを握り締めたり?)。それらによって、読者は主人公に入り込んでいきます。
ですが、『アフターダーク』ではそのようなフックはあまり使われていないと思います。だから、たとえばこれが誰か現実の人間との会話でなら、フックとなる言葉(「しかし君のお姉さんは美人だったよな」とか)が文章になると、ほとんど素通りされてしまいます。そして、主人公たちが抱えているものが抽象的な問題に感じられてしまいます。
でも実際は、『アフターダーク』のマリは具体的な問題を持っています。「特別な姉を持った妹の苦悩」ということでOKだと思います。すごく具体的です。
私には、この『アフターダーク』の文章表現は、「現代の現実の世界」に適応しているように思えるのです。(たぶんここで、三部作などからの読者は、村上春樹の文章表現の果たす役割を読み違える・期待を裏切られるのではないかという気がします。)
「現代の現実の世界」では、重要な言葉ほど嘘に聞こえますよね。(いちばんベタなところでは「愛している」という言葉とか。)私には、「現代の現実の世界」がたまに、言葉が通じるか通じないかの、ギリギリの世界に感じられるときがあります。大切な言葉や概念(気持ちや考え)を相手に正確に伝えるためには、それ以前にべつの確実なルートを作っておく(信頼関係など)必要があります。また、意味のない言葉を交わすことによって、言葉を交わしているという事実のほうをコミュニケートしなければならないほど、人間関係のなかで言葉が無意味になるときもあります。
そういう現実世界において、『アフターダーク』に内在するベタな概念(特別な姉を持った妹の苦悩と成長、あるいは他者に受け入れられる可能性という希望、など)を真剣に伝えようとしたとき、村上春樹はこの文体を選んだ(もしくは、文体が適応した)のではないかと感じるのです。その概念がベタだ、と思われた時点で、多くの場合それは失敗になってしまうからです。そして、通常はやはりフックを用いればそれだけ「ベタ度」が増します。
それから、「女性」の描き方ですが、マリは村上春樹なりによく考えられたモデルになっていると思います。女性というのは受け入れられること(エリのように美人であることなど)が価値になるような特性を持っています(とくに小説という分野においては)。自分を持てば持つほど、どこかで性とアイデンティティーがぶつかってくる部分があります。女性として現代を生きるのに、どんな生き方・個の持ち方・受け入れられ方が理想になりうるのか、というのはいろいろな小説が表現しようとしてきましたが、『アフターダーク』もその問題に答えようとしているように、私には感じられます。(それが成功しているか、あるいは現代の女性に受け入れられるかなどとはべつとして。)
今のところ、私にとって『アフターダーク』は上のような意味を持った小説です。(それから、私はやはり『国境の南、太陽の西』 以降の小説では村上春樹は、問題意識や現実の把握の仕方のようなものをシフトさせていると思います。)
上に書いたことは一つの受け取り方に過ぎないのですが、Junkyさんの再読の参考にしてみてください。
感想の続きもぜひ | No: 516
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初期3作を読んで私は、今から思えば書き方の新しさに惹かれた部分も大きいかったのでしょうが、それ以上に、私が抱えている切実な問題をまさにこの主人公たちは抱えていると感じ、それで村上春樹は特別な小説家になったのだと思っています。切実な問題というのは、おそらく「時代や社会(が一般的に価値化され情報化ていくこと)への齟齬」というか、それに対して「個人として自閉することの倫理や美」というようなことだったと思っています。これについては、村上春樹に共感した三浦雅士の評論に多いに共感した記憶があります。そのあとの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も、その「自閉すること」をまさに正面から、というかベタに扱ったというふうにみるだけで、私にとってもうものすごく切実な小説になっています。
とはいえ、私にとって、これらの小説もたぶん「抽象問題の抽象解決」でした。しかし同時に「切実問題の切実解決」でした。なにかを具体的に描いているわけではないけれど、主人公の問題自体が直接的に具体的に書かれているわけではないけれど、私のなかにある切実さと同じだから「わかるよ」という感じでした。
《私は、主人公たちが抱えているものが「抽象問題」とは感じないからです。》とあるのは、そういう意味だと理解し、昔の読後感を思い出して、共感しています。
というわけで、初期の小説は「抽象的だけど好き」、『アフターダーク』は「抽象的だから嫌い」、という私の感触は矛盾しているのです。
どうして感触が昔と今で変わったか。それは村上春樹が変わったのか、私が変わったのか、あるいは時代や社会が変わったのか、そこのところはもっとよく考えてみたいと思っています。
それはともかく、fkさんが、『アフターダーク』は「現代の現実の問題に通用する」という見方であるとして、それはfkさんにとってのどういう現実なのか、もっと教えていただけると嬉しいです。「特別な姉を持った妹マリの苦悩と成長」といった《すごく具体的》な現実でもいいし、逆に、それこそもっと抽象的な現実でもいいです。(いつでもけっこうですので、ぜひ)
Re: Re: 今日は感想も。 | Prev: 514 / No: 515
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Junkyさんの書評は、一つの読み方としてあるものだと思います。
ですが、できれば、二読目の書評も書いてみてください。時間があればでいいのですが。
もし、Junkyさんの言う「『アフターダーク』と、初期のころの小説とでは、なにか決定的に違ってしまったという感触」が、「近年の村上作品の性質である”抽象問題の抽象解決”は、作者の意図に反して、現代の現実の世界には通用しない」というような感触であるのなら、それは覆る可能性があると思うからです。
なぜかというと、私は、主人公たちが抱えているものが「抽象問題」とは感じないからです。『国境の南、太陽の西』 以降の主人公たちが抱えているものは、すごく具体的な問題だと思えるからです。
Re: 今日は感想も。 | Follow: 515 / Prev: 512 / No: 514
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すぐ説得されてしまうのもどうかと思うのですが、
fkさんの指摘を自分なりに思いめぐらせてみると、
なるほどもっともだと感じます。
私自身は『アフターダーク』にのめり込めなかったわけですが、
それだけではなくて、
(それがどういう種類の のめり込み方かはわからないにしても)
fkさんが書いているような、なんらかの強い のめり込み方を、
他の読者ならするかもしれない、という可能性すら薄いと、
私はふんでいました。
(だからあのような批判中心の感想にするのを、躊躇しなかった)
だから、自分の感受性に、ちょっと敗北感を覚えます。
私は『アフターダーク』に愛される読者ではなかったのか、というか。
でもまあ、一読してあのように感じてしまったのは本当だから、
しょうがないのですけどね。
もう一度読み返してみたいという気になりました。
ただ、もう一度読んだとしても、
『アフターダーク』と、初期のころの小説とでは、
なにか決定的に違ってしまったという感触は、
やはり覆らないのではないか、との思いは依然あります。
(だからもし、読み返して、それが本当に覆ったら、
=翌ソょっと大変な体験になると思うんですけどね…)
=
ぜひまたいろいろ書いてください。
脱字 | No: 513
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↓すみません。最後から6行目あたり、姉と「の」記憶、です。
今日は感想も。 | Follow: 514 / Prev: 511 / No: 512
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文字、ありがとうございます。読みやすくなりました。
(たぶん、Junkyさんの知り合いではないと思います。迷宮旅行社の日誌は99年ぐらいからたまに読んでいるのですが。文章上のユーモアがいつも面白く感じるので。)
ええと、今日は感想も書いてみます。
『アフターダーク』とJunkyさんの書評についてなんですけれど。というのも、Junkyさんの書評には少し違和感を持ってしまったのです。その理由を書きますね。
(私は村上春樹の小説は具体的に書かないところが好きなんですが)今回Junkyさんからすると物語が抽象的過ぎて物足りなかったりするのは、それは主人公が女の子だからかもしれないですね。
すごく美しい歳の近い姉がいて、同じ姉妹でも自分は秀才の役割を望まれて育てられてきて、その上21歳になって姉は勝手に眠り込んでしまっている、というマリの状況はこれだけで、女性にはある意味すごく身近な、共感を呼ぶような設定だと思います。
高橋が姉ではなくマリに関心を持ってくれることが、マリにとってどれだけの疑念(同時に恐怖と期待)を掻き立てるものなのか。最後に姉と記憶を自分の中から探り出すことが、どれだけ困難なことだったのか…想像してみてください。
それに、マリが高橋に甘えるところも、感動的です。マリは誰かに、素直に何かをすることが怖いなんて言ったこともなかったし、それを受け止めてもらえたこともなかったと思います。
…というわけで、Junkyさん、女の子になって『アフターダーク』を読んでみてください。だいぶぐっとくる物語だと思います。抽象的な物語なだけではなくて、マリの成長の物語になっていると思いますが、どうですか。(もちろん、マリも、『アフターダーク』に感動してしまう私も、普通の人だってところに落ち着くんですけど…。)
小さくしました | Follow: 512 / No: 511
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自分のノートブックに合わせて大きくしたんですが、
悪影響も大きいのか…
ということで、文字、デフォルトに戻しました。
こういうことは、ほんとに言われるまで分からないですね。
そして、あまり言ってもらえない。(感謝)
(ところで、fkさんは、もしかして私と知りあいのfkさん?)
文字 | No: 510
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日誌、たまに読んでいます。
今日来てみたらはてなのほうのみになっていたので、はてなに行ったんですけど、文字が大きすぎて、読みにくくて、…。
IEで、文字設定を小にしてるんですけど、ふつうの大以上の大きさになってます…。直していただけたら、また読めるんですが…。
(感想とかなくて、これだけでごめんなさい。)
首都大学東京 | No: 509
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認可されてしまいましたね。
まさかのこと(認可されず)もありえるかと思っていたのですが…
もうちょっと抵抗できなかったのでしょうかねえ。
それを思うと、
伝家の宝刀たるストライキを敢行して、
ついに窮地を救ったプロ野球選手会は
偉大ですね。
高橋源一郎のサイトは、知っていました。
だいたい読んでいます。
とうとう | No: 507
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東京都立大学はなくなるのですね。ショックだなあ。
いや、ショックと言うよりは悔しいというのが正しい表現なのかな?
そのうち、どこかで石原にペイバックさせてやろうと思っています。
そうそう、高橋源一郎がホームページを開設していたんですね。知ってました?
Re: そりゃあいい | Prev: 504 / No: 506
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たしかに、なにも知らない競技でも、
日本人が出てると、楽しむ手がかりになるのは不思議。
図形問題を解くときの補助線みたいなものでしょうか。
日本ではオリンピック一色で、
チャンネルをひとつ分けてあげたいです。
とくに、有働由美子さんの混じり気のなさすぎる笑顔は
一見の価値あり。
> 夜中でも何でも、好きでも嫌いでも、見られるだけで
> いいじゃないですかーと、ぼやいてみる。
> いまのところ文字放送やネットでしのいでます。
> 日本を応援してるわけじゃ全然ありませんが、なきゃないで
> さみしいという、パラドックス気分。そんな気分になるのは
> なぜかなーと考えて分かったことがひとつ。
> けしてスポーツ好きではなくて、日本が絡んだほうが
> その件に関してカラミやすい。
Re: 「介護入門」 | Prev: 503 / No: 505
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開催前は、興味も知識もなくて、
むしろ期間中どうしたものかと心配でしたが、
「テレビが騒げば私も騒ぐ」という
じつに単純な力学にもっていかれています。
福原惜しかった…
そりゃあいい | Follow: 506 / No: 504
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夜中でも何でも、好きでも嫌いでも、見られるだけで
いいじゃないですかーと、ぼやいてみる。
いまのところ文字放送やネットでしのいでます。
日本を応援してるわけじゃ全然ありませんが、なきゃないで
さみしいという、パラドックス気分。そんな気分になるのは
なぜかなーと考えて分かったことがひとつ。
けしてスポーツ好きではなくて、日本が絡んだほうが
その件に関してカラミやすい。
「介護入門」 | Follow: 505 / No: 503
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せっかく文藝春秋を買ってきたのに、連日アテネ時間で読む暇が
ありません。私もいつのまにこんなスポーツ好きになったのかと
いぶかしみます。
男子体操団体決勝を徹夜で見るとか、翌日仕事を控えた社会人が
あまり堂々とすることではないですね。リポビタンDを流し込み、
仕事だって徹夜でやったことなんか何度もあるじゃない、と自分に
言い聞かせつつ真夏の朝に出勤したら、めまいを起こしました。
シドニーのときは、職安に内緒でこっそり内職をする無職だった。
無職が懐かしい、と不埒なことを考えています。
芥川賞 | No: 502
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佐川光晴が受賞するかなあ、と思っていたんですが、
外れました。
いちばん正統的な純文学作家かなと思うので。
(候補作は読んでいませんが、)
なんとなく芥川賞のながれで
絲山秋子という人のデビュー作「イッツ・オンリー・トーク」を
初めて読んだのですが、
非常にいいかんじですね。
それと
栗田有起という人も、「さぼりん」というのを
たまたま読んでいたのですが、これも非常にいいかんじでした。
(どちらも候補作ではありません)
好き嫌いでいったら
私はこの二人が、いちばんぴったりきますね。
モブ・ノリオよりも。
舞城王太郎は、やっぱり不可解としかいいようがない。
好きか嫌いかすら、まだはっきり言えない
それでもこれほど気になるのはなぜなのか。
評価が高いから気になるという部分もありますが、
でもそれだけではない。
絲山、栗田、モブ、佐川なら、
読んだ作品にかぎっていえば
みな本当に共感できて安心なのですがねえ。
舞城さん、 | No: 501
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残念でした。
でも受賞して騒ぎが起こるよりも、御本人としては
よかったのかも?
Re: 芥川賞 | Prev: 497 / No: 500
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舞城王太郎が芥川賞を取り
でも本人が姿を見せないとなると、
間違いなく話題になりますね。
で、マスコミなどが実像を暴いてしまったら、つまらないですね。
ただそれでも人物が特定できず、
あるいはそういう人物は実在していないのでは?
なんていう風説が流れたりして、ますます神秘化すれば
さらに面白いかなと思います。
いずれにしても、小説の世界が、
小説以外の世界(作者のイメージやコメント)を
まったく介在させず
その小説の言葉だけで成立しているのは、とてもピュアで
興味深いとも思うんですが、実際はなかなか難しい。
でも舞城小説の場合、それが実現してますよね。
Re: チベット | Prev: 496 / No: 499
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夏祖さん。いつもありがとう。
日本人の旅行者にとって、
中国における一番の秘境は、チベットだと思います。
そこへ鉄道で行けるようになるのは、驚きです。
中国の人も中国をよく旅行しますか?
中国の秘境として最も人気の高い土地は、
どこでしょう?
Re: ネットサーフィンしてて | Prev: 494 / No: 498
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> ダメな人間というのはですね。
> ネットサーフィンという死語を平気で使う所ではなくて、
> 世間一般の人がダメ人間ってこういう人だろうと考えることに、
> たぶん全部当てはまっている、そういう人間です。
返答遅れました。
具体的にはどんな人間でしょうかねえ。
などと言いながら、そうこうしているうちに、
実は、私はつくづくダメだなあと思う出来事が、
またもやあったりしました。
…やっぱりこういうことは曖昧にしか書けませんね。
芥川賞 | Follow: 500 / No: 497
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芥川賞も話題づくりに必死ですね。
舞城王太郎を担ぎだしたりなんかして。
しかし、あの選考委員のメンツで舞城王太郎を選出したとしたらこれはかなり面白いことですね。
心配なのは、芥川賞をとったら週刊誌やなんかが正体をあばくのに大騒ぎになるだろうと言うこと。
せっかく作品を純粋に読んでほしいと覆面作家で通しているのに、逆に作品とは全く離れたところで人々の興味を引くことになってしまいそうでなんだか可愛そうな気がします。
ぼくは、「好き好き大好き超愛してる。」は読んでいないので12日の発売を楽しみにしています。
パンダと九寨溝 | Follow: 499 / No: 496
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junkyさん
こんにちは
今度、いいですか。インターネットも国境を越えることができない時がありますね。昨日の中央新聞により,ゴルムドからラサへの鉄道の舗装がもうチベット自治区に入ったことです。2007年,完成する見積りです。
ラサとネバール | No: 495
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junky
こんにちは
送ったメッセージはいつもエラですが,すみません。どうぞ宜しく。junkyさんは忙しいですか。お大事に。
ネバール国が小さいなのに,景色が素晴らしいです。ユネスコに入った風景区が7箇所もあります。この国の独特な風景は山奥に隠して魅力に溢れています。
一般的なツアーは飛行求翌ナ成都からラサへの観光をした後,バスでジカゼへ観光(ジャンズの後道路が舗装をされないで),リラムから国境を超えてカトマンズへの観光です。ツアーは10日で,ラサとジカゼとシマラヤ山とネバールの主な風景区を含みます。ラサからカトマンズへの道は約2415キロで,ラサでネバールに入ったビザ扱います。また,入蔵券(チベット観光局の許可証)と辺境証なども必要で,10日繰上げの予定です。
http://www.dreams-travel.com/japan
Re: ネットサーフィンしてて | Follow: 498 / Prev: 492 / No: 494
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ダメな人間というのはですね。
ネットサーフィンという死語を平気で使う所ではなくて、
世間一般の人がダメ人間ってこういう人だろうと考えることに、
たぶん全部当てはまっている、そういう人間です。
そんな僕が思ってた事と同じことが書かれてたので
思わずBBSに書いちゃったわけです。
確かに今日は暑いけどいい天気ですね。
平和であると勘違いしてしまいそうなぐらい。
台風一家 | No: 493
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暑い!
Re: ネットサーフィンしてて | Follow: 494 / Prev: 490 / No: 492
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> 2004.6.5の日誌を読んでの感想。
> 僕と同じ考えの人いるんだなと思いました。
> TV等でこの事件についてあーだこーだ言う人をみて
> 夜空の星を網で取ろうとしている人のように見え、同時にそれは気楽で楽しそうだなと思いました。
> 所詮ワイドショーのネタ程度の話しですね。
> 2004.6.5の日誌を読んでの感想。
> 僕と同じ考えの人いるんだなと思いました。
> TV等でこの事件についてあーだこーだ言う人をみて
> 夜空の星を網で取ろうとしている人のように見え、同時にそれは気楽で楽しそうだなと思いました。
> 所詮ワイドショーのネタ程度の話しですね。
ワイドショーに出て好きなこと言って金がもらえて、
間違って感心してくれる人もいるなら、
それはたしかに気楽な商売かもしれませんねえ。
そういうものに私はなりたいような、なりたくないような微妙なところですが、
仮になってしまったら、もうほかのことは馬鹿馬鹿しくてやってられないかも?
世の中にどうにもならないことは多いのでしょうね。
子供の殺し合いもそうなら、
イラクの殺し合いも。
私が少々ダメ人間であっても、そんなのほんとにどうでもいいくらい、
明らかに深刻な辛さを被っている人が
世界には(あるいは日本にも?)大勢いるように思います。
ところで「絵に描いたようなダメ人間」とは例えばどんな?
いや冷やかしじゃなくて、とても興味があります。
日本中みんなもうちょっとダメ人間だったらいいのに。
Re: | Prev: 489 / No: 491
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> 会社を辞めて旅行しても次の仕事を見つけているのでうらやましいです。
いやあ、
世の中はそれほど私に都合よく出来ているわけではないようで……。
> 私も次の旅行は転職の合間にできるといいのですが、
> 転職できるような仕事ではないのでどうしたらいいのでしょう…
3カ月の旅行が出来るのなら、
極めて恵まれた状況なんじゃないですか?
(それともこれは会社に入る前の話かな)
大丈夫、どうせいつかきっと
矢も盾もたまらくなって、出掛けてしまいますよ。
> 旅行では風景や景色ももちろんですが、人との出会いが印象に残ってます。
海外では、異邦人とのなんでもない会話が、
麻薬にも似た強烈な体験(←ただの比喩)として残りますよね。
不思議なものです。
ネットサーフィンしてて | Follow: 492 / No: 490
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シンセミアってなんだろう?と検索してココに着き
ついでにちらっと読ませていただきました。
2004.6.5の日誌を読んでの感想。
僕と同じ考えの人いるんだなと思いました。
TV等でこの事件についてあーだこーだ言う人をみて
夜空の星を網で取ろうとしている人のように見え、同時にそれは気楽で楽しそうだなと思いました。
所詮ワイドショーのネタ程度の話しですね。
僕は絵に描いたようなダメ人間なので僕と同じ考えを持つ貴方はどうなんでしょう?
はは、失礼ですね。すみません。
また、暇な時に読ませてもらいに来ます。では。
Follow: 491 / No: 489
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会社を辞めて旅行しても次の仕事を見つけているのでうらやましいです。
私も次の旅行は転職の合間にできるといいのですが、
転職できるような仕事ではないのでどうしたらいいのでしょう…
旅行では風景や景色ももちろんですが、人との出会いが印象に残ってます。
フランスやスペインをヒッチハイクで旅行してた女の子、
ベルリンの列車の中でいきなり話しかけてきた中国人、
ビニールバッグひとつで旅行してるラトヴィアの青年
バス停でおしゃべりしたアルメニア人
ありきたりじゃない話が聞けるから楽しかった。
それぞれが一つの話になりそうな出来事でした。
こういうことがあるから私はまた旅行に行きたい。
私にはどこか行きたい場所があるわけでもなくて、
ただ旅行に行きたいと思ってます。
seseさん | No: 488
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はじめまして
私は学生時代ではなく、会社勤めを辞めた折りに、そのつど旅行しました。
万人にお勧めできる人生計画ではありませんね。
でもまあ、ちょっとオーバーなことを言うと、
無為徒食の旅行、あるいは無為徒食の読書、
そうしたこと以外に、
生きていくうえで本当に面白いことがあろうとは、
もはや思えないようなところがあります。
(言い換えれば、二つも生き甲斐があるじゃないか、とも言えますが)
こういう極端なことを内心思っている人は、
実はけっこういるだろうと思っています。
ただ、だからといって、
たとえば旅行と読書だけの人生を本当に送れるほど
恵まれた状況にあるわけではないのもまた、
みな同じだろうと思っています。
ともあれ、旅行記を目にしていただけるのは本当に嬉しいかぎりです。
書きつづった甲斐があります。
私は、月単位の旅行は4回ほどしています。
でも記録をちゃんと掲載したのは1回分だけです。
旅の日記というのは不動産みたいなもので、
いつでも回想できると思って、そのままになっています。
こういうレスポンスをいただくと、
また書きおこそうか、という気持ちがわいてきます。
seseさんは、どういう旅行をされているのですか。
よろしければ、またお聞かせください。
あるいは、最近はウェブサイトが簡単にレンタルできますから、
なにか書きあらわしてはいかがでしょう。(ひきこもりの時代も含めて)
夏祖さん | No: 487
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また表示が乱れましたね。残念です。
でもまた書いてください。
『アエラ』という日本の雑誌があります。
(朝日新聞社が出している雑誌です)
このあいだ、その雑誌に、チベットに関する短い記事が、掲載されました。
それによると、
ポタラ宮殿のすぐそばに、新しい大きなデパートが出来たそうです。
写真も掲載されていました。
チベットも、市場経済が、どんどん発展しているようですね。http://www3.asahi.com/opendoors/zasshi/aera/backnumber/r20040531.html
旅行 | No: 486
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はじめまして。私は学生のときは旅行に興味もなくヒキコモリをやってましたが
ここ1、2年旅行に行ったりし始め、前の旅行は3ヶ月ほどで、もうこれだけ行けば
飽きるだろうと思ってたのに、ますます旅が好きになってしまいました。
Junkyさんの旅行記が好きです。私もそんな旅行がしたいなあと思えてくる。
これらの旅行は学生時代の旅行だったんですか?
社会人になってからでは長期休暇は取るの難しいですし。
チベット | No: 485
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こんにちは
ラサへの唾佩はチベットモQ高蕉のヤS辛が秘りK秘ハi発といわれKまたK廉チベットへばx廠ヤ^が駅勣です。これで、5晩タRり貧げの嚠協が駅勣でKだからKわが芙にパスポゥ`トのフメ翼bクスと返原署を僕ってください。
わが芙はチベット6晩のツアがありKラサ4晩のツアもあります。匯違議に垈゚Lの埖、諮、直、署ラ晩でーkです。和モ乢鬚貫Eください。
撹脅舞巒忽H唾佩氏芙
怐蘭凾Y撹脅偏匯ュh揃掴膨粁9催
フメ翼bクスY0086-28-85155221 間張コ0086-28-85157110
http://www.dreams-travel.com/youthhostel/jp/index.asp
ラサの4晩ツア晩殻G秘ハi発300圷H
匯晩 劾6瓶w佩僂でラサへK寄録紅冽祇の尚弼のモQ高K怜矣ラサのホテルに俚むG互表押をご廣吭K爺昨の゚m場H
屈晩 徭念でラサの偏坪モQ高Gポタラ稽100圷、寄孅紡70圷、弼性紡35圷、ノロブリンカ50圷、伊叔瞬などH
眉晩 劾剪伊小梁畑へK僣表の亟寔などK賦ラサへ爾る
膨晩 怜念w佩僂でK怜矣撹脅に彭きKスKわる
チベットの6晩ツア晩殻G秘ハi発500圷H
匯晩 劾6瓶w佩僂でラサへKヤルジャンブ臭の寄録紅冽祇の尚弼のモQ高K怜矣ラサのホテルに俚むG互表押をご廣吭K爺昨の゚m場H
屈晩 徭念でラサの偏坪モQ高Gポタラ稽100圷、寄孅紡70圷、伊叔瞬などH
眉晩 劾剪伊小梁畑へK僣表の亟寔などK賦ラサへ爾る
膨晩 ラサ--ジャンズ--ジガゼへ 冽祇の僣囃L高の歌モQKジャンズ硬廓、易肖紡G徭念HなどのモQ高K怜矣Kジガゼに彭きK奢下戴紡の嗄モEG徭念HK亟寔など。賦、ジガゼのホテルにとまる
励晩 ジガゼからラサへ
鎗晩 w佩僂で撹脅へ スKわる
ゆ深Y この浮K撹脅からラサへの砂腎発がn貧げしたのでツアのW颪ャ我モしています。
またKラサ腎雇飽など
侏慳ツアはラサの牡るホテルYツ}爺躯ホテル嗽は署偐ホテルKジガゼの牡るホエルYジガゼホテル嗽は表翻ホテル。
裟ネAなツアはラサの牡るホテルY忽HホテルK ジガゼの牡るホテルY眉佛ホテル
すみません | No: 484
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junkyさん
こんにちは
すみませんが,下の発言はパソコンの画面エンコードが違ったので,ごめんなさい。
成都パンダ繁殖基地は成都の北に位置し、パンダの繁殖と研究の専門基地です。環境は優美で、極めて素晴らしい見所だ。
コース:朝7時半の頃、青年旅館から出発し、半時間ぐらいパンダ基地に着いて、パンダを見学して基地の博物館などがを巡り、約4時間かかり、昼頃、青年旅館に帰る。
価格:80元/人(入場券、交通費、ガイド)
パンダを抱いている写真をとるのは一人で100元必要です.
http://www.dreams-travel.com/youthhostel/jp/index.asp
http://www.dreams-travel.com
No: 483
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量子暗号? | No: 482
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夏祖さんの文章は、
ひらがなは、正しく表示されたようですが、
漢字は、すべて間違って表示されて=翌オまいました。
でも今回だけです。
これまでの文章は正しく表示されています。
=浴
サイモン・シンの『暗号解読』(本の名称)を思い出してしまいました。
廻岻唾--膨寒の唾 | No: 481
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junkyさん
こんにちは
膨寒福はモQ高ルY坿が楼めてリN源でK方謹くの殆這らしい徭隼伏腺尚モQと嘖雰猟晒尚モQを楠しています。膨寒福は9ケw侭の弊順シ会L尚兆ル曝を楠しています。忽社嘖雰猟晒廓とは40ケw侭の嶄忽嶷喘猟晒リ筈「△熙泙香翌_C┐丕ャ2000定參貧の嘖雰を隔つ福脅--撹脅偏の偏坪には牝旗の寄ヤ簡剖展Δユs侃砲佞韻辰振展Σ殘達ニX瓶旗の哂俛と各えられているヨT乞迅苧と┐ゆが疾られている冷昨K牝旗の溺來ヤ簡朴μ里両埠靴箸靴酉价C砲覆辰人\aィャ[つとに易吸廓をーkす]、[矩端表埖の梧]などの兆恬を火した川易のモ崙^K嶄忽雰貧ただ匯繁の溺吸として嗤兆な冷д爺を疾るд爺冷朔K卜旗を旗燕する猟繁で郊泉でもあったフK翻涜式びのその幻モHのフK莚、宮のフK証症姙を個夛してヤOけられた眉フKK深硬僥貧の寄ーkメ侃箸靴胴ツ斃筅臨ツ燭鰓,咾討いネo廼儔m^K爺和の謎モQとされる僅兮ス~謁に夛った媚祇Kそして弊順議にも嗤兆な餃臭の眉録和りK2200定も念に恬られた寄侏邦旋仏ヤO脅臭凭K忽右パンダの硬戦であるナP為堡傘Wo曝を楠しK寄楚の訊綾iCアヒ舛気。⊃廐愛霊「箸靴屯「鬢、討いソ廐梓m^K嶄忽の*縮ツ}仇の匯つに各えられている矩端表K71メゥ`トルもある弊順匯の寄*遭S表寄*Kユネスコに弊順徭隼゚zョbとされた表從邦苧の湘娟慫と仔愛覆稗「修琳丕シ鍍ッ慫は湧ヤ彫諒製遉蛤瑤个。∋乳愛亙世量ケ「蛤瑤个、泙香翌C泙世錬ャ翻圭のアルプスゥ`膨甲弟表K徭隼謎モQ-今苔慫の寄夛采K恷矣のシャングリラゥ`キR廓>供K祇縮ツ}仇-楳廓表K竓粳L脆-包掴幢今K弟の忽-アR港刷K圻兵廠-腸釣慫など方え俳れない嗤兆なメ翰C「燭C気鵑△熙泙香離
http://www.dreams-travel.com http://www.dreams-travel.com/youthostel/jp/index.asp
junkyさんは唾佩が寄挫きですか。撹脅へようこそ
楳定唾^が晩云繁がときどき凡牡しKたいていお撰ベが屎しい圭でKまじめな圭です。なんでも晩云繁は峠晩にもまじめですかKお藤れないか。GおそれいりますH
またKご゚Bスjしましょう。
190さん | No: 480
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新しい住まいは、都心ないしは東寄りということになりますか。
けっこう、あちこちに江戸の風情が残っているんじゃないですか。
私は山の手線より西側の住人なので、羨ましいです。
東京都現代美術館が近いのなら、それもかなりポイント高い。
オノ・ヨーコから電話がかかってくるという趣向は
面白いですね。
ハプニング性に、直感性・共時性、というかなんというか…
ちゃんと日本語で話してくれるんでしょうね?
一緒にジョンの歌でも歌うのがいいかも。「WOMAN」とか。
オノ・ヨーコは、横浜トリエンナーレで野外作品を見たことがあります。
貨車を使った表現で、
スケールが大きいのと、あのオノ・ヨーコの作品ということで
やっぱり印象は深いものでした。
かつて、オノ・ヨーコが展示した自らの作品のどこかに、
たった一言「YES」の文字だけが描かれていて、
それを見つけたジョン・レノンが、とっても感動してしまった、
とかいう話が、有名かと思います。
生に対して「NO」ではなく徹底して肯定的なところが、
彼女の本質なんでしょうかね。
そしてそれは、生まれ育ちがそうさせたところもあるのかもしれません。
夏祖さん | No: 479
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夏祖さん、書き込み、どうもありがとう。
私はこれまで、中国へ4回旅行しました。
北京、上海、西安、蘭州、新疆、雲南、桂林などを観光しました。
ほかにも、行ってみたいところは=翌スくさんあります。
四川省は、まだ行ったことが=翌りません。
本格的な麻婆豆腐を食べてみたいです。
九寨は、今まで日本人は=翌謔ュ知りませんでした。
でも、NHK(日本のテレビ局)が最近、取材して放送しました。
とても美しい風景ですね。
そちらの青年館に、日本人は=翌ニきどき宿泊しますか?
日本人は客として、どうですか(正直にどうぞ)?
若い人が多いですか?=
夏祖さんが日本語を使えるので、ちょっと驚きました。
どうやって勉強しているのですか?
どうぞ、またお暇なときに、なんでも書いてください。
引っ越してみました。 | No: 478
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みました。というには、かなりの労力と手続きの必要な作業なのですが引っ越してみました。
で、どうなんだということなんですが、以前より不便になってしまいました。問題が多いです。
東京都現代美術館が近いことが唯一の長所でしょうか。
先日、オノヨーコの展覧会に行ってきたのですが、会場に電話が置いてあって、1日に一度(なのかどうかは知らないのですが、実は)オノヨーコ自身から電話がかかってくるそうなのです。
で、僕がいろいろな作品を眺めていたら突然会場の電話が鳴りだし、客の一人が受話器を取り話を始めたのです。
これは、ギャラリーなんかで作者に話し掛けられるよりも随分と、どぎまぎしなくてすむし、それよりもエキサイティングな体験なような気がしました。(まあ、相手がオノヨーコだというのが影響しているような気もしますが)
やはり、オノヨーコが電話をかけて、それに答える相手が無作為だという、そのこと自体がエキサイティングなんでしょうね。
ともあれ、彼女がただのビートルズを解散させた女じゃないというとがわかった週末でした。(でも、彼女すごいブルジョアの出なんですってね)
Re: 夢の書き込み | Prev: 473 / No: 477
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junkyさん
こんにちは
私は成都人です。チベットへ旅行すれば,成都から飛行求翌ナ,ところで,チベット旅行局の許可がいります。
http://www.dreams-travel.com
まだ,ご連絡しましょう。
消息 | No: 476
[返信][削除] |
郵便っぽいというか、電波っぽいというか、
おかしな掲示板にみえるが(良い傾向)
そうではない。
殷氏の「柬埔寨」とはカンボジア。
漢字でこう書くとは知らなかった。
http://www2.comco.ne.jp/~riripat/tekiteki/index.html
えのきなみ氏の「花堂」とはブータン
…というのはウソだ。たいして訪れるほどの土地ではない。
緊急 | No: 475
[返信][削除] |
掲示板を一時お借りします。
JUNKY さん、連絡ください。
TEL 0907086**07
**は花堂教室の市内局番(2けた)です。
柬埔寨 | No: 474
[返信][削除] |
下の夢の旅誘致にひとしきり純粋に和みました。
ご無沙汰してます。
ところでこちらの柬埔寨もまことにおすすめしたい,物価もやすいで。
いずれまたゆっくり報告します。
夢の書き込み | Follow: 477 / No: 473
[返信][削除] |
下の書き込みは、中国の人が、
「旅行社」や「観光」で検索して、ここを見つけたのだろうか。
はるばるようこそ、とはこちらが申したい気分だ。
日本語も自分で書いたのだろうか。
一所懸命学習しているんだろう。(好感。皮肉ではない)
中国の、世紀的な活況がこんなところまで伝わってきた感じ。
しかしチベットは行ってみたい。
夢の旅 | No: 472
[返信][削除] |
皆様
こんにちは
私は中国成都神州国際旅行会社の会社員です。四川省は観光資源が豊富なところで,九箇所の世界級自然生態景観と歴史文化財を擁し,有名な九寨や四姑娘山や峨眉山や海螺溝やシヤングリラ-稲城亜丁などがこちらにあります。チベットの観光はこちらへ。みなさんのご観光は心から歓迎いたします。わが社の青年館は世界青年旅館の通用標準で建てて,外国人がよく住んでいます。この青年館は有名な成都武候祠の向こうにあり,交通便利な武候祠大通り242番です。サビースがいい旅館の施設が豪華で,部屋にはテレビやエアコンやシャワーがあり,パソコンもありますのでインターネットもできます。1階には居酒屋や売店があります。ところで,宿泊代は一泊で三級ホテルに比べ,ずっとやすいで,約三分の一です。まわりには,中華料理や郷土料理がたくさんあります。青年だちの楽園で,みなさんの投宿にいいところをまことにお薦めします。
http://www.dreams-travel.com
いっそ「首都大学石原」で | No: 471
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こうして新しい名前が出てしまうと、
もうホントに都立大は消えるのかと寂しい思いがじわっとわいてきました。
それにしても、学長も理事長(管理側のトップ)も石原人脈で固まって、
暴挙はどんどん既成事実化していきますね。
その一方で、教員応募が少ないというのは、
おかしな現実的ギャップで、これはまだよい徴候なのか・・・
こうなったら、文部科学省が「いくらなんでも」と考えて、
石原とマジに闘う気になってくれればいいのでしょうが(期待薄)
2/28の日比谷公会堂の集会がもうすぐですね。
丸谷才一ですか。なかなか渋い趣味と言われませんか?
とはいえ、私は大昔に一冊読んだ記憶しかありません。
『たった一人の反乱』だったか。
薦めてくれる友人もまだいません。
(そもそも友人が本を薦めてくるということがまずないですね)
格調の高い文体というのが近ごろ絶滅寸前で、希少価値なんでしょうか?
面白いストーリーなら読んでみたいですね。
お久しぶりです | No: 470
[返信][削除] |
首都大学東京ですって。
なんて、センスのない・・・。
しかも、都立大の新しい教員採用の試験への応募率は通常では考えられない程低い倍率だったそう。やはり、任期が決まっていたりしているせいで、研究に専念できないのではないかと敬遠されているらしいです。
大学(研究求頼ヨ、教育求頼ヨとしての)のレベルが下がって行くのがもう目に見えるようです。悲しい限りです。
先日から仕事に一段落ついてちょっと時間が出来たので友人から薦められて丸谷才一の『輝く日の宮』などを読んでいました。友人から薦められて。最初はあの文語調に馴染めなくて読み進むのに苦労しましたが、読んで行くと意外に気にならない。しかも本の内容も面白いと来て会社を風邪で休んで1日ふとんの中で読みふけってしまいました。最近はなかなか1日本をむさぼるように読むと言うこともできなくなってしまっているので、たまの風邪も良いものです。
そうそう、越前カニの食べ方はすっかりマスターしました。
みのたん | No: 469
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いやあ、実は私も密かにフメ翼唐セったのですよ。
ああいうちょっとした似顔絵があるのも、
アイコン的に、いいですね。
(実物は存じあげません)
みのたん | No: 467
[返信][削除] |
美濃口さんの記事はいつもキッパリしていて目が離せませんです。
今週のAIC水曜日の寄稿、最後から5行目から始まる
>また私たちにイラクについて、本当は何にも関心がないことをしめす。
を読んで、涙が出そうな気分になりましたです。
自分もまさしくそんな日本人の一人だったから、なのかもしれませんが。
↓
kagamiさん | No: 466
[返信][削除] |
どうもありがとうございます。
やはり貴重な一冊ですよね!
kagamiさんの名は『はてな』でもよくお見かけします。
どうぞこれからもよろしく。
ご紹介させて頂きました | No: 465
[返信][削除] |
始めまして、kagamiと申します。
稲葉振一郎『経済学という教養』=洛芍葬の皆様へ
とても素晴らしい書評でした。
僭越ながら自サイトで紹介をさせて頂きました。
これからも頑張って下さい!
No: 464
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女の気持ちがわからないから、女が嫌がることをするんじゃないでしょうか?
他者の気持ちは不問のままで、他者を自分の都合のよいように扱いたい。
それはこんな特殊な例ばかりではなく、仕事上でもちょっとした人間関係でも
よくあることじゃないかと思います。
昔ほど「私のことを少しでもわかろうとしてくれ」とは思わなくなりました。
奇妙な逆転 | No: 463
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《そして性的暴力を受けた女の苦痛を、男は永遠に
正確にはわからないものだろうと思います。
それは性的なことで女に屈辱を受けた男の辛さを
女が正確にはわからないのと同じように。》
基本的にはそう思います。
私のことは他人は本当にはわからない。
しかし私のことを、
「わかろうとする」人もいれば、「わかろうとしない」人もいる。
「わかろうとする」人は、
少しでもわかろうとして、それでも「わからない」と言う。
「わかろうとしない」人は、
少しもわかろうとせず、そのくせ「わかる」と言う。
奇妙な逆転。
一方、女のことを男は
「わからない」と言う人もいれば
「わかる」と言う人もいるかもしれません。
あやさんが「わからない」とあえて言うのは、
「わかる」と言う人への違和感からくるのか。(それは男?、女?)
それとも実は
「少しでもわかろうとしてくれ」という願いからくるのか。
どうでしょうか。
No: 462
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襲われることも不当なら、その犯人として
何の根拠も確たる証拠もなしに取り扱われるのも
同じ不当なことだと思います。
そして性的暴力を受けた女の苦痛を、男は永遠に
正確にはわからないものだろうと思います。
それは性的なことで女に屈辱を受けた男の辛さを
女が正確にはわからないのと同じように。
仕方ないですね、こればかりはどうも。
それにことこの問題に限らず、人が他人の感情を
正確に知ることなど、もともとできないのですから。
まあ被害者から見ても、警氏翌ニいう存在は不愉快極まりない
存在であることが多く、これはJunkyさんも私も同意できる
点ではないか、と思います。
No: 461
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あやさん、どうも。
被害女性に対して私が書いた部分ですが、
最初はもうすこし同情的な文章でした。
でも、あとで考え直して、書き改めたのです。
彼女が受けた不当さは、私だけでなく彼女自身が主張できるけれど、
私が受けた不当さを主張するのは、たぶん私だけだろうし、
黙っているべきものでもない、
というふうに考えて、
あえて自分の立場と疑問だけを強調することにしたのです。
これは言い訳ではなく、そうしてよかったと思っています。
というのは、こうしてあやさんから、女性の立場での本音を聞いても、
後悔しないですむからです(私の本音はすっかり述べたから)。
もちろん、痴漢にあった女性の屈辱を、
私が本当に実感しているかどうかは、わかりません。
それは、また別の、とても深くて大事な問題ですね。
お久しぶりです | No: 460
[返信][削除] |
少し前の、Junkyさんの日記に寄せて。
数回襲われた経験から。襲われた方はこんなことを感じているのだという
ことをお伝えしようと思いました。
襲われた直後、またしばらくの間、世の中の男全てに憎悪を抱いていました。
恋人でさえ、彼が「男である」という理由で、うとましかった。
理不尽ですが、そうでした。
ある時には、襲われた直後に助けてくれた男性の手を振り払い、その人に
怒鳴ったこともあります。
自分が襲われた地点にいた男が、全て、自分を襲った男のように思える。
その男の「仲間」のように思える。
被害女性の犯人取り違えが、もし、私が感じていた一瞬でも全ての男へ憎悪を
抱いていたことから起こる錯覚だとしたら、と思うと、その女性への深い
同情があります。
もちろん一方的に犯人に名指しされたJunkyさんの受けた屈辱と不快感の
元となった「錯覚」となることですから、許されるものではないのですが。
私は警氏翌ノ「犯人の顔は覚えていませんか」と問われたとき、
「覚えていません」としか答えることができませんでした。
目の前にいる男の警官よ、あんただってあいつの「仲間」だろうが、と
その時私は思っていました。(せめて婦警ぐらい寄越して欲しかった。
あの時は本当にそう思った)
おやこれまた縁が深い | No: 459
[返信][削除] |
しかし福井は今、積雪がすごいはず。
車でしたら、スノータイヤかチェーンがないと、
高速は通れない場合があります。
それとスリップ事故を、地元の人でもたいてい何度かは
起こすものです。そう言われても起こします。
慎重のうえにも慎重がいいです。
(といってももう遅いか?)
越前海岸の民宿は、三国町の料亭などに比べると、
おなじカニでもやや安く食べられたものです。
でこの、カニの食べ方にもまた、雪道のドライブと同じく、
定石というものがあるのが、おもしろいですね。
明日から滋賀〜福井です | No: 458
[返信][削除] |
明日から仕事で滋賀〜福井です。
琵琶湖東側から敦賀に抜け、武生から越前海岸に至ると言う長い長い道のりです。越前カニつくしの旅ですよ。
とは言っても、ぼく個人がカニにぴくりとも感動しない人間なので、煩わしさしかないのですが。
福井県と言うのは思ったより横に長い県だったのですね。
きょう新しく学んだことです。
あと、きょう、今月の「ユリイカ」の特集が小川洋子ということを知って、買ったものかどうか悩み中です。
他にも、恵比寿に『25時』を見に行きたいのにその時間がなさそうな自分に悩み中です。
福井の感想は、また。
190様 | No: 457
[返信][削除] |
こんなうれしい応答をいただけると、
サイトをやっていて本当によかったと思います。
ありがとう。これからもどうぞよろしく。
実をいうと私も卒業生なんです(同じく人文学部)。
しかし、
それを抜きにして石原のやり方が言語道断だと思うところも、
また同様です。
都立大卒業生として | No: 456
[返信][削除] |
もともと、このサイトを知ったのはなんだったのか?
確か、高橋源一郎という名前をキーワードにして検索に引っ掛かってきたのがきっかけだったと記憶しているのですが。それ以来、もう2年ほどいつも興味深く拝見してきました。
様々なことへの考氏翌ネどにいちいち感心することが多くて、僕が違和感を感じながらどう表現したら良いのか悩んでいたような事柄も、しっかりと言葉にして言い表わしているこのサイトは、実は僕のカンペでもありました。
ところで、いままで眺めるだけで満足していた僕がなぜ、いまさらながらBBSに書き込みをしようなんて思うようになったかと言うと、石原のコンチクショウの頭にくる政策に対しての憤りを、Junkyさんが表明してくれたから。そして、あまり社会的に問題とされていないその問題を、問題としようとしてくれていたから。
実は僕はタイトルにも書いてある通り、3年程前に都立大学を卒業したのです。しかも、今度の新大学では無くなることが間違いないと思われるフランス文学専攻に学んだのです。
だからほとんど当事者と言えるのですが、それを差し引いたとしても今回の石原の暴挙は納得できないのです。
今回の、石原の行為を問題なく許してしまったとしたら、それは恐らく今後の日本の学問、教育のあり方に非常に悪い影響を残す前例となってしまうのではないかと危惧しています。
今度は2/28に日比谷公会堂で集会がある模様。僕は仕事が出張で行けないのですが、もし、みなさん少しでも興味があるようでしたら顔を出していただけたらと思います。
それでは、またちょくちょくのぞきにきますので。
突然、失礼しました。
まだ小津気分(正月気分) | No: 455
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お久しぶりです。
いやあ、万一逮捕されて投獄されたときは
養女にでもなって面会に来てください。
ヴェンダースが小津を?=洛ゥ逃しました。見たかった!
そういえば似てますか?=
むかしウッディ・アレンに似てるとも言われたことがあります。
ヴェンダースのほうがずっといいです。
NHKの小津特集。
元旦からテレビをつけたら、やっていてびっくり。
『お早よう』という作品でした。
その後は、あまり見ていません、ゆいいつ『麦秋』を見ました。
唐突な結末にちょっと唖然。
しかし、どれもこれも「日本のミッドセンチュリー」というかんじで
小津映画は、どれを見ていても気持ちいいです。
それにしても、毎回、毎回、役者と役柄をシャッフルしたようなところが、
おかしいですね。
小津 | No: 454
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正月から災難でしたね。なにかお手伝いできますか?
公的求頼ヨへのいちゃもんのつけ方とか。
さきほどBSでヴィム・ヴェンダースが小津を語ってました。
見ましたか?興味深い話と人物でした。
そういえば似てますね。
まさはるさんへ2 | No: 452
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まさまるさんの投稿で、最も胸を打たれたのは、中島義道氏の言でした。少しだけまた書き写します。
《「生きてきた、そしてまもなく死ぬ」ということは、こうしたすべての仕事を圧倒的に超えた価値をもっており、あえて言えばこうしたすべてを無限に超えた仕事とである。とすると、死にぎわに、この真実を覆い隠すことは不幸ではなかろうか?》(『働くことがイヤな人のための本』165-166頁)
《数十年前に偶然にこの地上に生み落とされた。そして、いま死んでゆくということ、その荘厳さはいかなる仕事からも独立である》。(同、171頁)
いつか絶対に死ぬという事実から生を眺めかえすということを、私たちはあまりにもしない。そんなだから、生きてあることのガラクタではない本当の不思議さに、私たちは思い至ることがない。しかも、その生きてある不思議さから眺めることで初めて理解できるはずの、死んでしまうことの本当の不思議さについても、だからやっぱり思い至ることがない。
この種の不思議さに関する論議は、たとえば安全保障や和平政策はどうあるべきかという論議に比べたら、ほとんど開拓されていないようにみえます。少なくともテレビや新聞でしばしば触れるようなことはありません。これまた圧倒的な非対称ですね。この種の不思議さを考えないでなにを考えることがあるのか、とすら思うのですが、なぜかこの一番大事な思考がついつい一番後回しになるというのが、私の現状ではあります。(ちなみに、クオリアという不思議に思いを凝らすことは、たぶんそういう思考につながる気がしています。)
*
内田樹氏は毎度のことながら絶妙の分析を示してくれますね。
《日本の国際戦略の大義は、国際社会において「蔑み」の対象となっても、「憎しみ」の対象には決してならないことに存する。私はそう信じる》。(『おじさん的思考』17-22頁)
こうした洞氏翌共有できる私たちはやっぱり幸運です。小泉内閣も「自衛隊の派遣は米国に約束したからもう引っ込みがつかない」という事情を、このくらいエレガントに弁明できたなら、初めて議論が始まるのでしょうが・・・
*
それから、内田樹『期間限定の思考』(239-242頁)は、国と個人の関係を考えるとてもよい見取り図だと思いました。そのうえで――。
《差し向かいで個人が話す場合でも、集団の一員としての責任を背負うことからは逃れられない。》(1)
《国民国家の行ったことについて「手が白い」国民は一人もいないんです》(2)
(1)の原則は(2)にどこまで適応できるか。それは時代や問題に応じて変わりうると捉えたうえで、それぞれ(イラク問題や中国問題への私の感情)の妥当性を丁寧に見極める必要があると思いました。
まさはるさんへ | No: 451
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一番きわどいところを探りだすこと、
そこをあえて辿りつくすこと、
ほんとうに意味のある思考とは、こういうことを指すのだと思いました。
のちほど、改めて返答します。
なお、私の日記は「はてなダイアリー」に転載していて、
そこに追加コメントがあります(参考までに)。
「大問題」について6(止) | No: 450
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●と、延々と書いてしまう僕は大森や中島にはなれない人間なのかもしれない。奥、井ノ上の両外交官の冥福を祈る。二人の遺された家族のこれからに幸の多からんことを重ねて祈る。
「大問題」について5 | No: 449
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●僕は別の意味で不謹慎な感覚を、これまた中島によって育まれている。今回殺害された二人の外交官としての志や仕事が盛んに誉めそやされているが、それはむしろ、本当に大切なことから目を逸らさせることなのではないか。中島は次のようjに言う。「世間的に何か価値のある仕事をなしとげた人は、なんとその「何か」によって生を彩ってしまうことだろう。「死」というこの壮大な不条理を世間的な仕事というガラクタで覆い隠すことに専念することだろう。いかなる仕事でも変わらない。その仕事がいかに多くの人に幸福をもたらしたとしても変わらない。天然痘や癌の撲滅に一生を捧げたとしても、バッハやミケランジェロのようにすばらしい作品を生み出したとしても、やはりそのすべての仕事は、死にゆくとき彼らに少しでも満足をもたらすとしたらガラクタである。こんな立派な仕事でなくてもよい。先祖代々の旅館を守り通したとしても、岬の灯台守として数十年勤めあげたとしても、三人の子供を女手ひとつで育てあげたとしても、そのすべての仕事は、もし死ぬときに「俺(私)はコレをした」と呟いて満足するとしたら、ガラクタである。「生きてきた、そしてまもなく死ぬ」ということは、こうしたすべての仕事を圧倒的に超えた価値をもっており、あえて言えばこうしたすべてを無限に超えた仕事とである。とすると、死にぎわに、この真実を覆い隠すことは不幸ではなかろうか?」(『働くことがイヤな人のための本』165-166頁)。
「数十年前に偶然にこの地上に生み落とされた。そして、いま死んでゆくということ、その荘厳さはいかなる仕事からも独立である」(同、171頁)。
今回の二人は(翻って僕たちは)「自分の人生を世間的な仕事を重ね合わすことなく、剥き出しのまま受け止めること」(同、164頁)「生きてそして死ぬこと、この単純な不条理をごまかしなく見ること」(同)ができたか、できているか。
「大問題」について4 | No: 448
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●しかし一方で、僕はこうして僕の意見を述べることに大きな違和感も覚える。まったく別の声が聞こえてくる。
中島義道は大森荘蔵について書いた文章で「哲学者とはずいぶんグラグラした世界に生きている生物である。とりわけ足もとがグラついている。だから正義とか環境とか戦後責任といった晴れがましい「遠出」はできない」(『文学界』2001年1月号)と述べている。やや違う文脈だが永井均もこう言っている。強引に引用する。「世界があり、自分がいて他の人もいる。物が見え、体が動かせ、言葉がしゃべれる。それだけでも思考の素材としてはすでにじゅうぶんすぎるほどなのだ」(『翔太と猫のインサイトの夏休み』あとがき)。僕はなぜ「イラク」などという晴れがましい問題圏へと遠出しているのか。再び中島から。「あの日そしてちょうどあの時、私は市ヶ谷駅を通過していたのだ。渋谷に着いて何やら騒がしい人々の渦の中に入って聞き出すと、三島由紀夫が自決したというニュースであった。中略。ふと時計を見ると、大森荘蔵先生のゼミが始まっていることに気づく。急いで駒場に向かい、扉を開けると、数人の生徒を前に大森先生が黒板に向かって何やら難しい数式を書いている。「あの…」と私が言うと、先生が振り向きそして数人の生徒も私をじっと見つめた。「今、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊本部で割腹自殺したそうです!」私は興奮して叫んだ。すると、ほんのしばらくの沈黙の後、大森先生は「ああそうですか」と言われた。そして「では、次に進みます」と黒板にサラサラと次の数式を書きはじめた。中略。ゼミが終わっても、先生はそれについて何も語らずにそのまま教室を出られた。中略。私は「ああそうですか」という先生のやや反感の籠もった声と私に向けられたやや憮然とした態度の中に、さまざまなものを感じることができた。中略。たぶん先生は「今、天皇が死んだようです」と伝えても「今、大統領が暗殺されたようです」と伝えても「ああそうですか、では次に進みます」と答えるであろう」(『生きにくい』105-106頁)。
中島はまた米国の同時多発テロについてこんなことを言っている。「それこそ連日あの光景をテレビで見ました。この辺から本当に不謹慎になるんですけれども、そのときの世の中で議論していたことはテロ対策をどうするとか、タリバンとは何かとか、世界経済は今後どうなるのかということです。私はそれらに興味がまったくないわけではないんですが、あまりないんです。五千人が死んだということも、事実としては私にとって大きな問題ではないんです。では何が一番大きな問題かというと、とっさに考えたことは、これは果たして決定されていたのかどうかということなんです。つまり、哲学的には大きな問いとして「決定論」というのがあります。自由意志があるのかどうかという大きな問いです」(『たまたま地上にぼくは生まれた』254頁)。
「大問題」について3 | No: 447
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●ここまで書いて、ふと顔をあげて考える(そのとき東武東上線は、降り積もる悲しみののなか難渋している)。なぜ僕は今回の事件について、こうして意見を言いたくなり、現に言い始めているのか。何が僕を触発し、促しているのか。ここにはjunkyさんが言うような「相当な錯誤が含まれている」ナショナリズムがある。これについて僕はこんな以下のように考える。
@
(1)まず現代において現実的に「国」という単位がほどよい大きさのものとして、ある程度有効に求濫\していること
(2)それに関連してマスメディアの報道網が現実にこうした思考を強いるような形で張られていることがある。すなわち(@)<日本>のメディアは日本(人)のことを中心に日本(人)に向けて情報を流す(A)一方<日本人>はそのような情報を欲するという傾向がある(ただし(A)は(@)の原因であると同時に結果でもあり循環的である)
A
再び内田を参照するが今日における個人と国家の関係のあり方の問題がある。それは「とほほ」な従犯感覚に基づく関係である。内田は「「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決まらなさ」」を「とほほ」感覚と名づける(『ためらいの倫理学』218頁)。僕達は国家に対して「とほほ」な立場にあり、「とほほ」な関係を取り結んでいる。「宮崎哲弥とか筑紫哲也とか安藤優子とかに欠けているのは、この「とほほ」の感覚である。彼らが日本の状況と言う関数式に導入するのは「おのれの無垢」(あるいは「無力」)というデータである。「無垢にして無力」なものとして自らを提示するのは、「自分が含まれている社会」の諸制度を審問する上できわめて有利な戦略である。それなら現状がどれほど悪くでも、そこに責任のあろうはずない。(これは宮崎が批判しているフェミニズムの自己正当化と同じロジックだ。)これはいけないと私は思う」(同、219頁)。
以下、長くなるが内田の別の著書からの引用を続ける。
「政治単位とその構成員ひとりひとりは違う。どちらがどちらかを決める、というのではなく両方みていないといけないと思うんです。個人が集団を代表するわけではないし、集団が個人すべてを代表するわけでもない。でもやはり絡み合っている。中略。差し向かいで個人が話す場合でも、集団の一員としての責任を背負うことからは逃れられない。それは仕方がないことだと思うんです。中略。僕はそういう会話の中で、「日本人を代表して」中国の人に対して日本の戦争犯罪について謝罪するわけですが、そんな権利が自分にあるかと言われれば、たしかに一億分の一の権利しかないわけです。でも、だからと言って、「これはあくまで個人意見にすぎませんので、日本人を代表したものとは取らないで下さい」とは言えないわけです。中略。こういう場面では、純然たる個人という資格で語ることはできないんです。そういうことは必ず起きてしまうんです。そういうかたちで個人と集団というのは、非常に錯綜しているんだと思います。中略。前に高市早苗が「私は戦後に生まれたので、戦後責任を謝罪しろと言われても、私が誤る義務はない」というようなことを言いましたが、この発想というのは、共同体と個人の間が深いところでからまっているということ、個人は国家を代表できないけれども代表できる、代表すべきだが代表すべきでないという、ものすごくデリケートな関係にある、ということが分かっていないということだと思います。中略。全員が共犯関係にある、というのが、国民国家における国民の有責性のあり方なわけです。中略。国家の行動に対しては、全員が何らかの形で責任を負っている。それについては知らなかったことも、判断しなかったことも、意見を発表しなかったとしても、すべては立派な政治運動になる。戦争反対の場合であっても、反戦闘争を適切なかたちで展開して、実効的に戦争を阻止することができなかったということについてやはり有責性を問われてもしかたがないわけです。国民国家の行ったことについて「手が白い」国民は一人もいないんです。中略。ナショナリストは国家の犯した罪を決して認めないし、左翼の人には自分達もまた従犯であると言う意識がありません。いいところも悪いところも込みで、トータルに国家についての責任のうちの「自分の割り前」を引き受けるのが国民ひとりひとりの仕事だという当たり前の「常識」だけが語られていないんです」(『期間限定の思考』239-242頁)。
僕にイラク問題についての意見を表明するよう促すのは、この「とほほ」な従犯感覚ではないか。
「大問題」について2 | No: 446
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●自衛隊派遣に関して意見は割れているようだが(小泉は強行しようとしているらしいが)、僕の考えは内田樹が「湾岸」や「アフガン」について繰り返し表明していたそれにほぼ同じである。「私は戦争について語りたくないし、なんらかの「立場」もとりたくない。もちろん現場になんか頼まれたって行きたくないし、「先頭にくみする」ことなんかまっぴらごめんである。中略。第二次大戦後の現状に関する限り、「現場へ乗り込んできっぱりとした態度をとる」ことをよしとする国と、「現場にゆかずに、ぐずぐずしている」ことをよしとする国のどちらが多くの破壊をもたらしたかは誰の目にも明らかだろう」(『ためらいの倫理学』18頁)。「私は海外派兵にはもちろん反対である。「そういうことをしない非常識な国」というのが国際社会における日本の「奇妙なポジション」なのである。中略。G8のなかで「かっこがつかない」ことなんかどうだってよいではないか。中略。大義名分を立てて戦争することより、大義名分のない平和にしがみつく方がずっと難しい。中略。派兵されれば、「死ぬ」だけでなく、必ず「殺す」ことになる。日本政府の人々がアナウンスすることを避けているのは、一度でも一人でもその国の人間を軍事的行動の中で殺せば、日本はその国の全員から、何世代にもわたって、深い憎しみを引き受けることになる、という当然の予想である。私はG8の体面なんかよりも大事なものがあると思う。国際社会における威信よりもっと大事なものがあると思う。日本の国際戦略の大義は、国際社会において「蔑み」の対象となっても、「憎しみ」の対象には決してならないことに存する。私はそう信じる」(『おじさん的思考』17-22頁)。「アフガンに自衛隊を送って、アメリカによくがんばったなどといわれることと、このまま戦争をしないという記録を60年70年と伸ばしてゆくのと、世界史的に見て、どちらが大事なのか、そんなの見えてるじゃないですか。とにかく先進国の中で第二次世界大戦以後、兵士が外国領土に行ってよその国民を殺していないというのは日本だけなんですから」(『期間限定の思考』237頁)。
以上、自衛隊派遣=戦争ではもちろんないが、自衛隊が行くところは朝日が言う意味で「戦場」であり、「自衛」のために人を殺すことは十分ありえるだろう。
「大問題」について1 | No: 445
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お久しぶりです。「大問題」、興味深く読ませていただきました。わたくしも、意見というほどの意見でもない、引用の織物を。
●イラクで二人の日本人外交官が殺害された。12月1日付の朝刊で新聞各紙はこの事件を一面トップで大々的に報じ、10ページ近い紙面を割いて詳細を伝えている。二人に妻がおり、それぞれ三人の子供、幼い子供と来月に生まれるという子供がいるという事実、そしてイラクの人と話すときに防弾チョッキを着ていなかった、あるいはイラクを狙ったアメリカの<大規模テロ>の際に人間の盾となっていた人たちに本音を打ち明けながら説得にあたったというエピソードを知るにつけ、悲劇が胸にしみる。
各紙の社説は対照的だ。朝日新聞は「「たじろくな」では済まぬ」と題し、「テロと言うよりも戦争が続いているに等しい」とも述べ、自衛隊派遣の大前提となる現地の状況に疑いをさしはさむ。さらに社会面でも小田実が「単なるテロ活動というよりイラク人が本当に怒り出してレジスタンスを始めたのではないか。泥沼に入ったベトナム戦争の初期と同じ感じがする」とコメントしている。一方、読売新聞。読む前からの嫌な予感が的中してしまう。社説の見出しは「イラク支援の戦列から退くな」。中身に触れる気力は無いが、「戦列」とは聞き捨てならない表現ではないか、それがたとえ比喩であるとしても。開いた口がふさがらない。
RE:生涯の小説 | No: 444
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なるほど、納得のセレクトですね。
図らずも”かっこいい”ほうと2作重なりました。
今回は「小説」と限定しましたが広義の「本」としたときには
全然別のラインナップになるのでしょうか。
ところで本当のところは「正直どうかと思う」ほうが事実で
あったりして…。
発表(BBS含む)というものは対外さを意識せざるを
得なくて、尚且つ「こうありたい」という願望が出現
してしまう場合があります。
そう考えるとJunkyさんと重なったという前記の発言も
十分怪しいわけです。
生涯の小説について読書暦を振り返って本当に考えてみたいです。
考えた暁にいずれまた投稿させていただきます。
生涯の小説 | No: 443
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こんなベスト5を選ぶ自分はちょっとかっこいい
1舞踏会へ向かう三人の農夫
2百年の孤独
3薔薇の名前
410・1/2で書かれた世界の歴史
5白鯨(読書中)
こんなベスト5を選ぶ自分は正直どうかと思う
1坊っちゃん
2ノラや
3箱男
4挟み撃ち
5日本文学盛衰史
脱線かもしれませんが | No: 442
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液体の思考について。
少々自由律俳句などたしなみます。
山頭火の句でこのようなものがあります
しづけさは死ぬるばかりの水が流れて
液体であらんとする精神状態というのは、図らずとも
心の奥底で、液体に対してカタルシスを期待している
現われなのではないかと思ったりして。
ベスト小説おもしろいですね。考えたこともありませんでしたが
百年の孤独は私もベストに入れます。
皆さんはどうなのでしょうか。
時間があればベスト5くらいは考えて発表してみたいですね。
「液体の思考」 | No: 441
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どうもどうも。あれはマルケス『百年の孤独』に絡めたところが、なかなか狡猾なのですが、それはさておき。
『百年の孤独』といえば、それを読んだなら決まって「私の生涯におけるベスト小説」に入れてしまう、そんな特異で得意な一冊ですね。
現代倫理学の冒険 | No: 440
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『現代倫理学の冒険』、第1部を中心に読みました。感想を少し書きました。
http://www.mayQ.net/junky00.html(10月5日付)。
センの考えは、うまく要約できませんが、じつに広く深く考えぬかれて出てきたものだと感じました。各自の選択の自由をそれぞれ重んじた結果、誰にとっても好ましくない選択になってしまうことがある、という話は分かりやすく、導入としては面白いですね。
=三原麗珠氏のサイト(http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~reiju/courses/99/rights99.html)にもありました=
ロールズは名前だけ知っていて気になっていたので、ちょうどよい求莱でした。ノージックについては、講談社現代新書『自由はどこまで可能か』を少し読んでいました。
今回意外に関心をひかれたのは、共同体の伝統的な規範をそう軽んじてはいけないよ、という考え方でした。danskさんが《私達はその誕生の因縁、すなわち住所(国籍)、氏名、言語、性別、血液型、両親の職業等、アイデンティティーを形成するその根本的要素のうちの重要ないくつかを決定的に環境、すなわち「マワリ」に依存しながら我々の「世界」にエントリーしてくる》と書いたことに関連すると思います。
さて話は変わって、不確定性原理についてですが、超がつくほど難解ながら、同じく超がつくほど無視できない論考があります。参考までに。
「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」
http://www.k-hosaka.com/kashimura/ain.html
液にまつわるエトセトラ | No: 439
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毎度さまです。宣伝に参りました。
御サイトでの宣伝ありがとうございます。
今回の月刊てがぬまに寄稿してくださった
Junkyさんの記事「液体の思考」。読み応えあります。
東京永久観光ビジターの皆様さま。
お時間のある時にでもぜひ一度、ご覧くだされば幸いです。
今後ともよろしくお願いいたします。
ゲーデル=翌諱[出る=翼ロレヒ=翼ロレヒ | No: 438
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フカクテーセーゲンリ、フカンゼンセイテーリ
私はどちらもちゃんとした理解に達していないので、何とも・・・。
ラップにして歌うくらいが関の山です。
ともあれ、『現代倫理学の冒険』が手に入りましたので、
少しでも読んでみます。
論理的記述の射程 | No: 437
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自己完結系の論理的記述は循環論磨翌ノ陥ってしまう、とゲーデルの不完全性定理は主張します。
一方外部へと記述の対象を求めると記述の「客観性」はハイゼンベルグの不確定性原理の精度を超えられなくなってしまう。それ以上はただ主観あるのみ、というわけです。
結局のところ、"Let it be" といういささか陳腐?なオチになってしまうのでしょうか・・・?
哲学とは(大げさ!) | No: 436
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なるほど。
我々の行為や思考には、「カラダ」はもちろん、
「マワリ」という複雑な初期条件が、大いに大いに関わってくる、と。
そういうなかで、(ある種の)哲学者は、
ココロ、というか、思考や言語そのものの論点だけを
慎重に抽出したうえで、考氏翌オているように見えます。
そのとき、
たとえば生物学とか社会学なら、
その理論を適用させるべき、具体的な現実が目の前にありますが、
(ある種の)哲学は、そういう対象がじつは見当たらず、
適応させるとしたら、やはり思考や理論そのもの(哲学)に
適応させるしかないのかもしれません。
自己言及的というか、哲学のためだけの哲学というか。
そうなるとしかし、
哲学は社会や人間をコントロールするには無理があるけれど、
哲学自体をコントロールするのは、
やはり哲学自体だけなのではないか、とも思います。
そのような存在である哲学の
意義や、それに対する好悪が、問題になってきますね。
カラダ・ココロ・マワリ | No: 435
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結局どれも独立では論じ得ない対象なのかもしれませんね。
Damasioがいみじくも喝破しているように、生物進化史上「カラダだけで脳を持たない生物は数多く存在するが、脳だけでカラダを持たない生物は(おそらく今後とも)存在しない(できない)。」ということのような気がします。
また一方それと同時に私達はその誕生の因縁、すなわち住所(国籍)、氏名、言語、性別、血液型、両親の職業等、アイデンティティーを形成するその根本的要素のうちの重要ないくつかを決定的に環境、すなわち「マワリ」に依存しながら我々の「世界」にエントリーしてくるわけです。
哲学を初めとする人間の知的営みが、いろんなことをコントロールしようと必死にもがき始めるとき、これらの諸要素は制約条件としてかなり大きな役割を果たしている様な気がするのですが・・・
意識と哲学 | No: 434
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http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/back/no23/book/book04.html
金森修さん、なかなかシブいところで、活躍していますね。
脳や神経と意識との関係などという恐ろしくややこしいことが、徐々に分ってくるのは驚くばかりです。こうなると、純粋に哲学的な「意志とはなにか」といった問いは、どうしたらいいんでしょうねえ。もちろん脳神経系の知見にからめて考えよう、ということでいいのでしょうが、でも実際はどうからめるのか、意外に接点が見つからないような気がするのです。あるいは、「私とはなにか」「時間とはなにか」「意図とはなにか」といった純粋に哲学的な問いは、実はもはや無効なのだとも言われているようですが、そうも思えない(もし無効だとしたら、意識の脳神経的解明がなされる前から、そんなものは無効だった)。・・・と戸惑っていたところへ、金森氏の書評は、こうした知見を哲学的問いへと橋渡ししてくれる本かも、という期待をもたせます。
私が思う純粋に哲学的な問いというのは、きょうたまたま読んでいたのですが、『哲学の謎』(野矢茂樹・講談社現代新書)などが、とても平易で大いに参考になると思います。『ダ・カーポ』でなぜか哲学特集をしていて、永井均さんも入門書の一冊にあげていました。(もし哲学にまったく興味のない人がいたら、ほんの少し興味のある私からの推薦書です)
ふりまわされないために | No: 433
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興味だけはいろいろあり、しかも飽きやすいという意味では、私も読書は雑食です。
《…=洛サ代はあたかも価値や善悪は特定の「権威的」情報源から与えられるものを無条件で受け入れるのが世間では正しい態度・行動であるかのようです。》
ここで言われる「権威的」情報源とは、報道求頼ヨや大学などの専門家を思い浮かべればいいのでしょうかね。
我々は長いあいだ、新聞とテレビだけを見てその情報を無条件で受け入れるという傾向が強かったようです。しかし、ウェブサイトが日常においてそれと並ぶほどの位置に来て、状況は少し変わりましたね。むしろウェブでは、与えられた情報をまずは無条件で疑ってかかるという人が目立つようです。おもしろいですね。
そういうなかで、新聞やテレビを無条件で受け入れることのリスクにまず気がつき、しかしまた、無条件で疑ってかかることのおかしさにも気づき始めていると思います。おかげで、誰がたしかな情報でたしかな判断をしているのか、誰が受け入れるべきと批判すべきを適正に弁別しているのか、そうした判断をするスキルも高まってきたと思います。また、誰かの考えや自分の考えが、全体のなかでたとえば右なのか左なのか、極端なのか中庸なのかといったことも、だいぶ見えるようになったと思います。つまり、たくさんの情報や判断のなかにおける、ある情報や判断の相対的位置というものが、時間さえかければ、ちゃんと見極められる、そのような素地ができてきたということでしょう。
しかし、こうした判断の素地とは違うレベルで、そもそも情報や判断というものは、どのような性質を持つのか、どのようなときに正しいと感じ、どのようなときに誤解しがちなのか、といった基礎的な知識も大切なのでしょう。今話題にしている判断基準とは、そういうほうの基準ですね。生物として、社会として、また言語として、我々の判断力の、思いがけない特徴や弱点を知るということでしょうかね。振り回されないためには、こっちの知識も必要かもしれません。
何分にも・・・ | No: 432
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雑食性なもので、無駄本読みです(苦笑)。
強いて言えば良い意味での「心の違和感」を感じさせてくれる思想が好きですね。常識とか想像の先にあるものを「真摯に」追求しているものであればノンジャンルで何でも読みます。
ご紹介した本・著者達は、そんな最近の「マイブーム的」リストの中からの数冊です。ご指摘のとおり、今回のテーマは「判断基準」ですね。それはおそらく生物学と社会・文化の両方にその発生基盤を持っている様に私には思われます。で、情報はそれをフィルターとして通過、加工された後はじめて利用可能な形で供給される・・・と。
小泉政治や消費者マーケティング(広告代理店)に代表されるまでもなく、現代はあたかも価値や善悪は特定の「権威的」情報源から与えられるものを無条件で受け入れるのが世間では正しい態度・行動であるかのようです。でも結果がいつも(そして「今後も」という長期的展望にたった場合も)それで正しいかどうかは別問題ですよね?
さて、振り回される人(社会)とされない人(社会)、どこが違うのでしょうか?
No: 431
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http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/back/no23/book/book04.html
こんな書評がありました。ご存知とは思いますが、一応お知らせです。
金森さんの書評というのが贅沢な感じですね。
書庫に1冊だけあり(某区の図書館) | No: 430
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川本隆史「現代倫理学の冒険」あたりが、入門にはよさそうですね。
図書館にリクエストでもしてみようかと思います。
本は、「文字を読む」前に、「手に持つ」段階、「中を開く」段階と、
いろいろありますから、無駄にはならないでしょう。
それにしても、三原麗珠さんという人のサイトでは、
「ありがたみありそうな文章ですけど……」と言いつつ《何か古くさそうやし,題名も暗いっ.それに数式っぽいのがぎょうさん出てるし……》
と学生につぶやかせているのは、なかなか自虐的・・・。
danskさんは、現在の興味(専攻?)の中心が
ずばりSenの理論にある、ということなんでしょうかね。
Senの理論 | No: 429
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補足です。彼の著作はかなり数学もしくは論理学に基盤をおいたものが多く、正直はじめは取っ付きやすくはありません。私が最初に読んだのは川本隆歴史の「現代倫理学の冒険」の中のSenについての章でした。この本は他の社会思想史に関する記述も含めて非常に平易に書かれています。(以下はAmazonのページから。)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4423730731/249-8846027-3461155
あと変わったところでは、香川大学で教えている三原麗珠という人のWebもユニークな入門編といえるかもしれません。彼は経済ではなく政治学をおしえているみたいですが・・・
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~reiju/courses/99/rights99.html
はじめまして。danskさん。 | No: 428
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ただもう、いろいろ読まなくてはという思いにさらされるばかりです。
ちなみに、2冊を無理やり結びつけるなら、
どちらも、決定の方磨翌ノついて考氏翌オているようですね。
個体による決定はどうなされているのか。
社会における決定はどうなされるべきか。
『ユーザー・イリュージョン』の書評によれば、
自由意思というのは、本当は身体全体が行なっているのに、
あたかも私という意識が行なっているように思わせている、
ということのようですが、
まるで小泉総裁をおだててその気にさせる自民党のようです。
《瞬間的な決断が必要なときには、
=浴ヮпрニその自由意思は一時停止し、<自分>が冷静に反応する》
というのは、
総理はパニクっても、いざとなったら政府全体がちゃんとやるからさ、
というふうでもあります。
(実際の小泉さんや政府がどうかはわかりませんが)
それよりは、
代議制による国会や内閣が決めているようでありながら、ほんとは、
世論や市場などをふくめた国民の全体が社会を統御している、
と捉えると、ちょっと気分がいい。
まあ実際の社会は、こんな単純な見立てで理解したつもりになってはいけない。
だからこそ、
『集合的選択と社会的厚生』のように、
《ひとりひとりの好みや意見をもとに、
「どうしたらよいか」を社会的に決めるメカニズム》を
多角的にじっくりと考えてみる必要があるのでしょう。
しかしながら、
冷静で公正な理論に基づくがゆえに、この決定に賛成、
と説得される国民よりも、
熱狂的な騙しによって一気に引きずられるような決め方に、
賛成してしまう国民のほうが多数だったばあいは、
なかなか理想的にはいかないかもしれませんね。
さいごにトリビアをひとつ。
貨幣論の岩井克人さんは、小説家、水村美苗さんと夫婦だとか?
(未確認)