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質問2に対して | No: 200
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Junkyさんの挙げた選択肢のうちでは、(2)と(3)の中間に近いかと思いますが,
より正確に言うと,「批評」「哲学」という言葉に新たな意味を独断的に
(柄谷のものいい全般には、言いきってしまうことによる有無を言わせなさ、
ついそう思わせてしまう、小泉首相的な何かを感じます)付与したのではないでしょうか。
哲学をある閉じられた領域でのもの、批評を絶えざる移動・ズレとして定義。
柄谷はそれらの言葉の文磨欄I意味の(ユダヤ教徒的な?)価値転倒者です。
柄谷は「たんに考えてみる」ということができず、常に自ら(の言説)を規定する
歴史的条件とかを考えてしまいます。「たんに考える」知性も、それが本物ならば
やがて、その知性の出自と成り立ちを疑うようになるものです。歴史的条件を意識しようとする知性の歴史的条件を意識しようとする知性の歴史的条件・・・。この無限後退、あるいは逆についには空虚に至るたまねぎの皮むき。それはそれでよいのですが、いかに歴史的条件に規定されていようが、とにかく「たんに考える」強さ、思考の強度が柄谷にはないのではないでしょうか。
AとBをどーんとならべてみせてその共通性(自己言及だとか)をすぱっと言い切って見せる柄谷の
論調は華麗な強引さという矛盾した形容を与えるべき独特の何かがありますが、
安易なアナロジーの多用でしかないような気もします。ただ、誰しも経験することですが,いろんな文章を読んでると、あ、あれと似ているな、これと似ているな、とすぐに言いたくなります.柄谷はそこで、「似ている」とあっさりと、しかし、
それなりのもっともらしさをもって断言してくれるので,心地よく,柄谷の文章を
読んでるとつい、なにか分かったような気にさせられます.
あと、根本的にリアクティヴです。根本的にリアクティヴというのは、すべてが引用だと考えれば誰しもがのがれられない根元的な(超越論的な)条件,それによって思考が可能になるような可能性の条件ですが,この次元ではなく,もっと経験的な次元で,柄谷はつねに「カントは、マルクスはこう言った」というのを、
文章の(そしてとりもなおさず思考の)フォーマットとしています.
永井均とか中島義道とか野矢茂樹とか池田晶子とかは(彼らの間の違いもそれはそれで大きいのですが)、みな「たんに考える」。地に足がついているという感じがします。(最近、このグループに、入不二基義という人を加えてもいいかと思っています.)
他者ということでいろいろと | No: 199
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《本当に他者性を持った他者というそれについて考えることが原理的には不可能であるような他者については、永井均のように独我論の隘路を通じて迂回することにおいて副次的にふとかいま見えるような形でいるという考え方に、恐ろしいほどの本当らしさを感じます.》
これは、永井均が『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書)などで<私>と名付けて考氏翌オているものを想定すればいいのでしょうね。あの考氏翌ヘ私もそれなりに丁寧にたどってみました。たしかに《恐ろしいほどの本当らしさ》という感覚になろうかと思います。永井均の、論点を徹底して突き詰める考氏翌フおかげで、ああいう感覚に至れるのでしょう。しかし、それほどの考氏翌ナあるがゆえ、気が散りがちな生活者には、行き詰まったり煮詰まったりもします。そういう時は、突き詰めることをいったん諦め、論点を遠巻きにしてぐるぐる廻るような考氏翌併用したほうがいいのではと思い始めます。かりに分析的・記述的といった分類をするならば、同じ論点のいくらか記述的な文章を求めるわけです。しかし今のところそういうものには出会っていません。だから、永井均をもっと理解しようとすれば、けっきょく永井均を何度も読むしかなくて、でもそうするとやはり、前回行き詰まったのと同じところでまた行き詰まってしまうという状態でしょうかね。
あるいは、論点を少し(だいぶ?)ずらすという手が有効かもしれません。それで思い当たるのは、野矢茂樹の『哲学・航海日誌』といった本でしょうか。この本は、「他人の痛みが分からない」というのは正確にはどういう意味なのかといった問いを執拗に追うばかりか、言語とコミュニケーションの本質までもが同じ構造の思索を当てはめることでしっかり見えてくるという、素晴らしい一冊だと思いました。この『哲学・航海日誌』のテーマは、<私>とかそのネガとしての(?)「他者」とかいうことと、イコールではないにせよ、それを考える準備運動にはなるかもしれません。(もちろん、ならないかもしれません)。
ともあれ、『哲学・航海日誌』は、痒かった部分を実際に目でみながら少しづつ掻いていくという実感がありました。それに比べて永井均の本は、これまで痒いと思っていなかった部分が読んでいるうちにじわじわと痒くなってきて、でもなかなか掻くことができずにいる、ということになりましょうか。
この比喩を借りるなら、永井均や野矢茂樹がどう痒いのかを見きわめることも大切ですが、そもそも哲学というのは、ほかでもない自分がどう痒いのかをできるだけ正確に表現する行為でなければ無意味だと思います。それは言い換えれば、どこが痒いのだろうか、ここが痒いのだろうかと、あちこちひたすら掻いてみる(書いてみる)ことにほかならないのでしょう。もちろん、ちゃんと掻けるかどうかは常におぼつかないのですが、掻くこと以外にできることはなさそうだし、また掻くことだけは誰にでも許されているというふうに思います。
私たちも、「私はここが痒いのだ」ということを(それは他者ということをめぐってでもいいし、それ以外でもいい)、徐々に書いていくとしましょう。
質問3と1に対して | No: 198
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3に対して
《思考が状況を志向しているということ、しかも根本的にそうであるということ》
は、
柄谷とか、パフォーマティヴだとか何だとか騒ぐ東浩紀とかの文章から、
僕が経験的に感じる雰囲気です.
で、「批評」という言葉に関して言うと,
批評という営為が元来リアクティヴなものだというか、
状況(とそこにおける自己の言説の位置)を優先的に(無意識にだとしても)配慮
するようなものであるという感がぬぐえません.
これは批評という言葉の文磨欄I事実(批評という言葉は本来は常にこのような文脈でこのような形でしか使われ得ない)のような気がします.
だから、そうでないような批評家というのは、文磨欄Iには存在しないと考えます。
そうでない人を僕は批評家とは呼びません.
ただ、経験的に批評家と(なぜかぐうぜん)呼ばれている人の中で
そうでない人がいるかというと、
寡聞にして知りません.
ぼくはそうでないことを志向する知性が好きですが。
1に対して
柄谷が疑えないのと同様に、僕も僕の話を聞いてくれる話が通じる普通の身内的な他者がいることを疑えません.僕は非常にオーソドックスなというか、
普通の意味で社会的な感覚で,普通に他者が存在することが自明であると考えます.
そして僕のこのような感覚は,(根本的に公共的であるほかない)言語というものを僕が僕が習得している(というか根本的にそれに支配されている)ことによって生じるものであると考えます.
少し話を変えて,本当に他者性を持った他者というそれについて考えることが
原理的には不可能であるような他者については、
永井均のように独我論の隘路を通じて迂回することにおいて
副次的にふとかいま見えるような形で
いるという考え方に、恐ろしいほどの本当らしさを感じます.
永井の文章を読んだ後に、普通の目の前の何気ない普通の人から本質的な他者性がにじんで見えてくることがあります.
(質問を気にせず)どんどん書いてください | No: 197
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《柄谷が他者の他者性とかいうとき、その事態に心底「ぞっと」しているとは感じられない.他者の他者性とか言うのを聞いてくれる他者がいることが、根本では疑われていないというねじれ。》
これが指し示す「構図」はだいたい分かるつもりです。しかし、他者ということのリアルな「感触」を、私自身が生活や思考のうえでどれだけ認識し、どれだけそれにおののいているかというと、定かではありません。
ただ、たとえば「いつか私は死ぬのだ」ということの重大さについてなら、割とマジに考えている方だと思っています。そして、他者ということのリアルさは、死ということのリアルさに似たリアルさなのだろうとは思うのです。
昔、知りあい10人くらいと「死んだらどうなる」というテーマで真面目に話すというへんな求莱がありました。そのとき「死んだらどうなるかは誰もわからないのだから、それを話すのは時間の無駄だ」という人がいました。あるいは「死んだらどうなるかに興味はないが、各自が死んだらこうなると考えるその背景に興味がある」という人もいました。私は単純に「自分が死んだらどうなるのか」ほんとうにそれが知りたくてどうしようもありませんでした。今もまあそうです。
〜まさはるさん(あるいはここを読んでいる方)に質問〜
質問1
柄谷行人が実は疑っていない他者という認識が、まさはるさんにとっては、普段どういう形で実感され、どういう言葉で表れてくるのでしょうか。
質問2
かりに批評(解釈)と哲学(省氏浴jという二つの方向を設定した場合、柄谷行人は、(1)批評と哲学をわざと混同させているか、あるいは区別できない(2)批評には価値があるが、哲学には価値がないと思っている(3)批評が得意だから批評をしていて、哲学はたんに苦手だからやらないだけの、どれに近いと思いますか。
質問3
《思考が状況を志向しているということ、しかも根本的にそうであるということ》は、そうでない批評を志向すべきだという意味か、そもそも批評とはすべてそういうものだという意味か、どちらなのでしょう?前者の場合、そうでない批評を志向する批評家は誰か思い当たるのでしょうか。
そういえば、柄谷が大好きな当の | No: 195
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カントが『純粋理性批判』の序文か何処かで
フィロドクシー(その場限りの言説への愛)と
フィロソフィー(知への愛)とを区別しています.
柄谷の場合,単純に前者であるといってしまって良いような気もするし,
もう少しねじれていて,
柄谷にとっての知そのものが、言説の「その場」の分析であるような感じがします.<交通>だとか何だとかいうような。それはそれでよいのだけど。
柄谷みたいな言説の「交通」整理やさんがいると、
それはそれで便利ですし.
joukyou-orientedな優れた批評家 | No: 194
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状況と思考の<根本的な>短絡性、ということで僕が考えているのは
状況によって思考が決定されているとかいうことではなくて(それもゼロではないし、またこのことからは誰も免れないが)、
思考が状況を志向しているということ、しかも根本的にそうであるということです。
例えば「日本の言説空間(の閉鎖性)」とか、そういうことから出発します。
自分に先行する空間や世界(それらが邪悪な捏造物であるかはしらないが)の
存在自体の自明性は微塵も疑われません。
それは一面では正しいし,系譜学的な鋭い思考です.
また、柄谷には、言説空間における自分のポジションに関する(自)意識が吹翌「去りがたく刻印されています。柄谷は自分の思考や言説が、様々な状況でどのような意味を持つかということに関して、常に自覚的であるし,そうであるべきだと信じています.(これは、「論壇」の権力関係とか卑近な意味ではなく,根本的に,自分に先立つ言説空間や、その座標軸がつねに意識されているという意味)
柄谷が「批評」を標榜するなら、そのような意識の持ち方でよい。
そして批評とは、柄谷が主張するように、ある領域に対する横断性「とらんす」です。
しかし、柄谷はしばしば、カントをやって初めて自分が哲学をやった気がしたなどと言います.
このような発言にどうしても違和感を感じます。
永井均は、知性のあり方に「解釈的」「省氏欄I」という区別を提示しました。
解釈的知性は、世界を解釈し,ある一つの立場に立つことを究極の目標とし、
省氏欄I知性は、単に真理を知ろうとする、というような区別だったと思います.
柄谷は、解釈的です.永井は省氏欄Iです.
結局はNAMという一つの運動(立場)を打ち出すに至るような知性のあり方.
(別問題として,純粋に省氏欄Iであることは可能かという問題もありますが。
すなわち、省氏欄Iであることが、省氏欄Iに常に既に結果的には解釈的になってしまうことは避けられないような気もするし、知を言表しようとすること自体の根底にある欲望なんて言い出すと、全部うさんくさいし。cf高橋源一郎「威張るな」の、「モノ書く」人の問題。)
過去とは現在における想起であって、実在ではないと言う大森荘蔵に対して,
池田晶子が「本当のところどうなんですか?」と聞いたところ,
ひとこと、「ぞっとします」と答えたというエピソード.
柄谷が他者の他者性とかいうとき、その事態に心底「ぞっと」しているとは感じられない.他者の他者性とか言うのを聞いてくれる他者がいることが、根本では疑われていないというねじれ。
柄谷行人が哲学でないとしたら何故か | No: 193
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まさはるさんの書き込みを読んでしばらく考えこんでいましたが、関連するかもしれないことをとりあえず。
●先日の大塚英志とスガ秀実との対談(早稲田大学現代文学会企画)で、大塚は、<今のような戦時にこそ、柄谷のような知識人に、思考の指針を示すような発言を期待したい。しかし、批評空間のサイトの柄谷行人『これは予言ではない』を読んだら、戦時中に不用意なことをいうとあとで恥ずかしい思いをするからやめろ、といったように書いてあったので、むかついた>という趣旨のことを述べていて、それはそれで面白かったのですが、それとは別に、<吉本隆明の、猫を飼っているという事実や、そのことにふと言及するような姿勢に共感を感じるが、柄谷行人にはそういうところがない>と、たしかそのようなことを述べており、そっちのほうがなんだかとても気になりました。(引用は記憶のかぎりです)
●柄谷行人はおそらく、世界や社会の間違い、他人の思考の間違いに誰よりも鋭く気が付いてしまうので、それをどうにかして他人にも気付かせたいという苦悩がとても強いのではないでしょうか。つまるところ、他人をなんとかしたい、社会をなんとかしたい、と。それに比べて、この自分がわからなすぎる、この自分をまずわかりたい、この自分をどうにかしなくちゃしょうがないだろう、といった苦悩で一貫しているようにみえる人もいます。私の印象では、たとえば中島義道、永井均、池田晶子といった人たちです。
●<戦争責任とかそういう「晴れがましい」問題へと遠出できない>という言葉から私が実感するのは、一つには、今いった自分の存在の不思議さそのものを話し合いたいような場合は、たとえば「日本国は戦争責任をどう果たすべきか」とか「アメリカはアフガニスタンを空爆すべきか」といった議論しかしない人とはソリが合わないという点。もう一つは、戦争責任といった問題を極めて晴れがましく語る行為の「晴れがましさ」への違和感というのがあります。
●柄谷行人は思想研究者であり運動実践者であると思いますが、その一方で、言論という営みについてまわる錯覚を初めて指摘するような役割も果たしてきたと思います。ただし、哲学のほんとうに望ましいあり方ということを考えたときに、柄谷行人はそこから縁遠いのでしょうか。あるいは、むしろ害悪を与え見えなくもさせているのでしょうか。
●《状況と思考の<根本的な>短絡性》とまさはるさんは書いていますが、今度はそのあたりを具体的に書き込んでいただければ幸いです(お暇なときでけっこうですよ)。
これは哲学ではない | No: 192
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「これは予言ではない」は、その記述内容よりも
あの状況においてそのような文章を書いてしまうという言語行為が
僕にとっては問題です.
正確には、状況と思考の<根本的な>短絡性が疑問です.
これは柄谷的な知性?のあり方そのものに関する疑問です.
正確な引用ではありませんが、
中島義道は戦争責任とかそういう「晴れがましい」問題へと遠出できない、
なぜなら今ここの足元にある世界がぐらつきこそが大問題だから、というような
ことを言います.
一方,『倫理21』の第一文,柄谷は(これも正確な引用ではありませんが)
「ずっと戦争責任のことを考えてきた」と言います.
かくも鮮明な両者の隔たり.
僕はどちらかといえば、中島を信頼しています.
大森荘蔵は三島由紀夫が自決したというニュースが講義中に飛び込んできたとき,
「ああそうですか」と素っ気無くつぶやき、そのまま講義を続けたそうです.
カントをやって初めて哲学をやったと思えたというようなことを呑気に言う柄谷。
カント(研究)と訣別した中島。
これは予言ではない/柄谷行人 | No: 191
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読んだけど、べつだん頭には来なかったな。
無字社会 | No: 190
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なんとストリーミングできますね。
じゃあこれからは、音声で日記を書く(?)のもアリかな。
文字偏重のネットに革命を!
ブラウズするほうは、どっちが楽か?
音声の検索はどうするか。
でけた | No: 189
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RealSlideshowをダウンロードして、ストリーミングでできました。
まだテスト中なのでURL及び内容は変更の可能性あり。
今度はRealVideoのストリーミングに挑戦します。
RealVideoもつくりたい | No: 188
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MP3フメ翼CルはRealJukeboxでVHSテープから直接ラインインしてつくったんだ
けど、昨日、RealProducerをダウンロードして、WAVEフメ翼CルからRealAudio
フメ翼Cルもつくってみました。やり方がよくわからないせいもあると思うけど、
RealAudioにしたら、サイズがかなりコンパクトになりました。RealVideoも
つくりたいんだけど、やり方がまだわからない。RealProducerはMPEGには
対応してないみたいだし、VHSテープからのラインインもうまくいかない。
また今日もいろいろ試してみよ。
リアルプレーヤーの件 | No: 187
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単に、データをrm形式にして、
そのままアップすればいいということなんですね。
ストリームになるか、ならないかは、
サイト側の設定だろうと思います。
Pokoさんのサイトもストリームではないですよね。
で、私の曖昧な記憶では、ストリームさせるためには、
有償のソフトがいるんじゃなかったでしょうか?(不正確)
それにしてもミクストメディア(レンタルサーバの会社)、
じわじわ浸透してるんでしょうか。
飯島つとむが実在するって?(「文藝」より) | No: 186
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我妻さん、書き込み感謝、です。今回の文章、当然ながら「シリアルジャップ」に負うところ絶大です。笑うべき小説というベクトルもそうです。ああした指摘がなければ、私は中原昌也の小説を顧みること自体なかったかもしれません。
下の応答文を読んで、またなるほどと思い、またいろいろ考え込みたくなりました。中原昌也は、自分がユルユル文を書いていることを、まちがいなく自覚はしているのでしょうが、それがどこまで戦略としてなされているか、というか、その戦略という意識をどのように保持する、あるいはしない戦略なのかというような点で、私には疑惑がなかなか解け(溶けて?)ない状態なのです。そういう意味で、少なくとも結果的には、ほんとに曲者です。
バーセルミとの比較や、《中原の小説には、日本語の外に持ち出し困難な要素が、意外と多いかもしれないと思った》というのも、興味ぶかいです。
いずれにしても、文章というのは、微妙な綾をあらわにする、というか、微妙な綾そのものだと改めて思いました。おそろしいですね、文章を書いて晒すということは。しかしまた、微妙だとか綾だとか言うけれど、最後はそれすべて言葉の正確な選び方・並べ方から来るのだということも、我妻さんの文章など読んでいると感じます。まあとにかく面白いですね。また「KILLING JOURNAL」や「練習ノート」にいろいろ書かれるのを楽しみにしています。
あ、そういえば | No: 185
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うちもミクストメディアです。
なるほど。 | No: 184
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あやさん>
ありがとうございます。
たまに思い出した時しか覗かないくせに
いざ、繋がらなくなると、その貴重さが分かりました。
ムキンポさん>
適当にやっているので的確にお答えできなくてすいません。
CDならそのままWAVにリッピング、レコードなら
ラインから入力してWAVを作りrmに変換しています。簡単です。
rmのままだと一度落とし終わってから再生するのかもしれないですね。
完全なストリームとは違うと思うのですが
レビューのページは*.ramというテキストのフメ翼Cルを介して
中ではhttp://www.halt.to/review/sybarite.rm
と実際のrmフメ翼Cルのアドレスを書いているだけです。
ストリームっぽくなるのでそうしています。
中原昌也 | No: 183
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こちらでは初めまして。シリアルジャップの我妻です。
junkyさんの中原昌也論を読んでいろいろと印象的だったのですが、ここは簡潔に一点だけ引用&思ったことを。
>>最後の「安易に」は余計だ。小説全部が安易な発想と文章のオンパレードなのだから。確かにそうだ。しかしそれでもわざわざ「安易に」と修飾してしまっているところが、また絶対的に安易。>>
最近バーセルミを読みはじめたのですが、バーセルミだと「安易に」は絶対に書き込まない(と思う)。そこが(たしかに似てるところも多い)二人の作家の決定的な違いであり、中原のもっとも中原らしい部分は「安易に」の部分に出ているのかもしれない。
と思いました。
蛇足や投げやり表現の多さが、中原の小説を「不純」「不真面目」に見せ、多くの批判者も油断して中原をテキトーにあしらってしまいがちな原因、なんでしょうね。たぶん。
「紋切型」をわざとやってるという痕跡、あくまでこれは「紋切型」の「批評」なんだという痕跡を、中原は「安易に」にあたる部分を執拗に(安易に?)書き込むことで、消そうとしているかのようにも見えます。
そういうのがなくて、バーセルミぐらいスマートに書かれてれば
「前衛だな。何か深い意味があるのかもしれない……」
と警戒した目で読まれるにちがいない。
その点、中原はみごとなまでに油断させることに成功した、と言えるのではないでしょうか。
三島賞前後くらいからは、ちょっと警戒も強くなってる気はしますが。
そして私は
「バーセルミ=アメリカ(英語)」VS「中原=日本(日本語)」
というようなことをぼんやり考えたりしました。
中原の小説には、日本語の外に持ち出し困難な要素が、意外と多いかもしれないと思ったのです。
浅田彰が嫌うのもそれと関係があるかも、とさらにぼんやり考え。
Real Playerのデータにしてアップするのは、簡単にできるのですか? | No: 182
[返信][削除] |
http://sendai.cool.ne.jp/suzuki_emi/emi0402.rm
わしも最近、ストリーミングに興味あるんだけど、http://www.halt.to/から
リンクされてた↑のフメ翼Cル試してみたけど、わしの場合、1度全部ダウン
ロードしてからでないと、RealPlayer立ち上がらなかった。どうしてかな?
ストリーミング用のフメ翼Cルは簡単につくれるのでしょうか。
サーヴメ卵、が対応してる必要があるようなことちょっと聞いたことあるけど、
そうなんでしょうか。
わしも月曜日に初めてMP3フメ翼Cルつくってアップロードしてみた。
「高源なぺえじ」停電で止まる? | No: 181
[返信][削除] |
こういうときは、過去ログでも(↓)。
Pokoさんは大昔から登場していますね。
>Pokoさん
http://www.halt.to/review/index.htmlにある曲、
いくつか視聴しましたがどれもナイス。
私は滅多に買わないCDを稀に買うときは、ああいうのが多いです。
渋谷TOWERの5階か、新宿TOWERのアヴメ翼塔Mャルドコーナー。
Real Playerのデータにしてアップするのは、簡単にできるのですか?
>あやさん、久しぶり(?)
私も、あちこちの掲示板であやさんの書き込みを読んでいるので、
久しぶりのような、そうでもないような。
少し前に話題だった、川上弘美『センセイの鞄』、
やっと本屋で立ち読み。最初の章だけ。いやあすごくいい感じ。
襟を正してちゃんと読む日が楽しみです。(早く買えよ!)
僭越ながら私が | No: 180
[返信][削除] |
「高源HP」は今何かサーバーの関係でつながらないようです。
Junkyさん、お久しぶりです。と言っても、私は相変わらず
Junkyさんの日記を楽しみに読ませて頂いているので、自分としては
お久しぶりな感じがしないのでした。
こんにちは。 | No: 179
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かなり久々に拝見しました。
高橋源一郎なページに繋がらないのですが
どうなってしまったのでしょうか。
書き込み大歓迎 | No: 178
[返信][削除] |
サトウヨシミツさん、はじめまして。
貴重な情報ありがとうございます。
講演会、時間が取れれば行きたいと思います。
(こんどは大隈講堂じゃないから、そう厚着しなくても大丈夫か)
大塚英志には、同世代の者として、
共感するところを探すような期待があります。
鎌田哲哉を指名したというのはけっこう意外ですが、
かえって興味深いところでしょうかね。
『戦後民主主義の・・・』は休み休み読んでいます。
また日誌に感想など書きましたら、見てください。
スガ秀実は、やっぱり、
渡部直己との共著『それでも・・・』が印象深い。
「糸圭」の漢字を、誰もが出せない点も印象深い。
ロフトプラスワンで一度お見かけしたことがありますが、
そのときはたしか、ほろ酔い気分で、
次第にぼやきっぽい喋りになっていったような。
面白そうだすね、スガ秀実はアホだけど | No: 177
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早稲田大学現代文学会企画=浴@2001年度講演会
「教えること、語ること=浴|アカデミズムの外部から−」
講演者=卵蜥ヒ英志、スガ秀実=浴@=落i会=落s川真人
日時=浴@11月21日(水)=16:30開場=17:00開演
場所=浴@早稲田大学本部キャンパス15号館302教室
地下鉄東西線早稲田駅下車=嵐n図
料金=浴@無料
宣伝も兼ねて、 | No: 176
[返信][削除] |
初めて書き込みします。日誌を中心に前々から読ませていただいています。
=翌アのページとの出会い(?)から書かせてもらいます。少し前になりますが、野矢茂樹にはまっていた時期がありまして、インターネットで色々と検索しました。で、このページの日誌に行き当たったわけです。その後、色々と読ませてもらったのですが、過去ログで知りました。ここの管理人さん、去年、私どものサークルの『保坂和志』講演会に来てくださった方だったのですね。ちょっとびっくりしました。
それでは本題です。今年も講演会を開きます。今年の講演者は『大塚英志』です。
=翌アこで少し内輪話をさせてもらいますと、彼から出演承諾をもらうのに条件が出ました。それは対談にして欲しい、と言う物でした。そして、彼の希望の対談相手が『鎌田哲哉』だったのです。批評コンビに幕の内、でも書かれている通り、彼は経済的自立と精神的自立について考えています。大塚も著作『戦後民主主義のリハビリテーション』の冒頭で、論壇誌と経済性について述べているので、興味を持ったのでしょう。ところが残念なことに、鎌田のほうは断られてしまいました(雑誌「重力」の準備で忙しいらしい)。
=翌ニいう訳で、結局うちの大学で講師をしている『すが秀実』との対談となりました。大塚には『物語の体操』、すがには『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』という小説家になりたい人に向けての著作があり、また両人とも大学で講師をしています。そこで、語る事を教える事の大変さ、について話してもらうことになりました。
上記の通り、準備段階で迷走しまして、宣伝できるまでに時間がかかりました。日時が11/21(水)と急な上に『King of 平日』の水曜日と悪条件が重なっていますが、興味がありましたら是非お越しください。詳細の方は下のホームページで見られます。
サークルURL:http://www.geocities.com/Tokyo/7830/
講演会詳細:http://www.geocities.com/Tokyo/7830/kouenkai.html
読みにくい文章を長々と失礼しました。もし不快でしたら削除してください。キーワード:111
これは皆に紹介しないと | No: 175
[返信][削除] |
ムキンポさんのリンク、
やっと気がついた。
ま、いろいろ気が引けないこともないけれど、
率直に言っておもしろいですね!
あの能天気な音楽がまた・・・
アクセス速度が速くなるというので。 | No: 174
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しかしアクセスが遅いと感じたことは今までほとんどなかった。
料金安いのに、不思議だす。
そこにもデータをコピーして置いといてくれてるんじゃないですか、 | No: 173
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だとしたら私も月曜にでも移転の依頼してみます。
土日も事務所には詰めてるんだろうけど、月曜の方がもしかしたら
作業がスムーズに進むかもしれないと思って(あまり根拠ないけど)。
サーバ移転 | No: 172
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ネームサーバが変わったよという情報が、
インターネットのあちこち(各サーバやルータですかね?よく知らないです)に
行き渡るまでに、やや時間がかかるということだと思うのですが。
移転前のサーバが参照されたとしたら、
そこをブラウズしようとするんでしょうかね。
でも、そうだとしても、
そこにもデータをコピーして置いといてくれてるんじゃないですか、
サーバ管理者の方で。しばらくは。
いや、よく知らないので、全然勘違いかもしれませんが。
ともかく移転はしてもらってます。アクセス速度が速くなるというので。