年齢を横軸、楽しさのんきさの強さを縦軸にグラフを作ったとすると、生の安楽さの計算法は積分なのか、微分なのか。
死の辛さということを示す数値も、生まれてから少しずつ積み重ねる病の総量であるのか、死ぬ瞬間(?)苦痛がどれだけ激しかったかであるのか。そういう場合、安楽死とは何か。安楽生との相関はどうなのか。

「安楽死」とは呼ぶものの、医療行為に支えられるだけの生と死に安楽などないと思う。筋肉弛緩剤をいよいよ投与しようかというような場合、そこに至るまでの苦痛といったら、それは想像を絶しただろう。

京都の京北病院の山中病院長が末期ガン患者を安楽死させたという行為について、新聞を読む限りでは、山中病院長が逃げも隠れもしないこと、過去も含めて事実を正直に語っているように見えること、法は法として裁きには従うという態度を見せていること、そういうことから、この人を信頼したい気になってくる。もし僕が末期ガン患者であったなら、安部英センセイよりは山中病院長にみてもらいたい。血友病でHIV入り非加熱製剤を希薄な責任感で打たれるのと、末期ガンで筋肉弛緩剤を死なせる確信をもって打たれるのと、どっち嫌だろうか。

ガン死というのは、誰もがかなりの確率で起こりうる絶望的な事態だけれど、それでもやはり自分が遭遇しないと本当のところは理解できないのだと思う。だからこそなおさら「安楽死」は法ではなく個人に選択させてほしい。これもまた、そういう事態に遭遇しない僕の遭遇しない時点での見解にすぎないのだけれど。

しかし、人が死ぬことを宿命づけられている以上、医学にもまた宗教にも哲学にも「救い」というものは結局のところ存在しないのかもしれない。


Junky
1996.6.8

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