センチメンタル・ジャーニー 大きな川の中央を、奇妙なことに川の流れに平行して、高架の道路がゆっくり蛇行しながら遠くまで続いていく。映画「東京夜曲」を見た人なら、この夕暮れの不思議な光景が印象に残っているだろう。都市の、なぜかセンチメンタルな美しさ。同時に、あんな場所がいったいどこに存在するのか、ずっと気になっていた。その答が、普段使わない電車にたまたま乗って、ある鉄橋を渡った時に分かった。ここだ。折しも雨模様。一帯がけむって見える。しかし間違いない。川の流れを二つに隔てるようにしてあの道路が建設されている。
さらに驚くべき偶然があった。この辺りは昔、上京した僕が初めて住んだ所ではないか。懐かしすぎる。帰りの電車で思わず途中下車してしまった。かすかな記憶を頼りに路地を行く。ああこの中華料理屋。チャーハン360円。うまいが当時この値だんは高く、たまにしか食べなかった。改装された店のディスプレイにチャーハンは630円。さらに歩く。ずいぶん長い間振り返らずにいた時代。そこに通じることを除けばなんの変哲もない路。通りが一本大きく拡張されたらしく、現在地をいったん見失いかける。しかし街景あるいは道筋のどちらかの記憶をたどってであろう、ついに昔住んだアパートが見えてきた。ここだ。ここだ。ここに昔の僕がいた。
川はすぐそば。今はあの高架道路が目の前に迫る土手に、かつてギターを抱えて座った少年。最終電車で眠りこけ、隣の駅からこの川をとぼとぼ渡って帰った日。十八歳だった。
懐かしい、とは、なんと無条件に潤いをくれるものであろうか。十八歳の自分を追想するこの気持ちだけは、現在十八歳であるあなたには絶対わからないだろう。若くなくなることが喜ばしい場合など無きに等しいが、これだけは例外だ。
東京田舎人3月号・随想「わたしの愛する風景」より